2015年8月17日(月)③国吉守先生は、金城重明先生や平良修先生同様

2015年8月17日(月)③国吉守先生は、金城重明先生や平良修先生同様


1986年4月から2011年5月、沖縄滞在期間、沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読み続けてました。

そうした中での課題の一つは、私の生涯を通じての課題である、レッテル張、イデオロギー、マルバツメンタリテイーとの闘いでした。

やまととウチナーチュの関係において、そのいずれかを丸、他をバツとする決めつけです。
それに対して、私の立場・提唱は、素朴なものです。
ウチナーチュにも、全部が良い人ばかりでなく、わる人もいるのではないか。
これを否定する人はいませんでした。

同様に、やまとんちゅうも、悪い人ばかりではない、良い人もいる。
ここで付け加えたものです。宮村武夫みたいに、そして大笑い。

国吉守先生は、金城重明先生や平良修先生同様、私にとり良いウチナーチュとして、心から尊敬する畏友です。
三人の先生とも、それぞれ言語に絶する状況の中で、若い日に聖書と出会い、聖書の証するイエス・キリストに出会い、生活と生涯を通して従い続けて来られたのです。

三人の先生方それぞれが、私の徹底的聖霊信仰、徹底的な聖書信仰を認めてくださり感謝です。

高校生の時に聖書に出会い、聖書にすがりつつ歩んできた、キリストに従う私の歩みを、「冷徹、かつ炎のように燃える聖書人」と、受け入れて下さっております。

今回の国吉守先生の文章は、まさに聖書を読み続け、聖書を通して沖縄を読み続けてきた、穏健な先生の、それゆえに妥協的だとかなんでもよしの立場だと批判されることのある、その実懐の深い歩みの心の奥にに燃えるマグマに触れる文章です。

 この文章をどう読むかにより、読み手の器量が自ずから明らかになるのでは。