2015年7月22日(水)③今、最重要な節目を通過しつつある実感 その1

2015年7月22日(水)③今、最重要な節目を通過しつつある実感 その1

 今日7月22日は、水曜日。9時半に、家を出て、杖を突きながら、約4千歩で京成小岩駅、9時45分発の快速に乗り東日本橋駅へ、エレベーターで地上に出てタクシーに乗り、運転さんとの会話を楽しみながら岩本町へ、エレベーターに乗って、4階のクリスチャントゥデイの事務所へ、すでに各自の仕事を進めている、僕仲間(黙示録22:8、9)に声を掛けながら、自分の机に座り、パソコンのスイッチを入れると、最近では10時半。

 今日も、矢田社長との、文字通り一心同体のコンビで、幾つかの記事やコラムへのコメントの打ち込み・書き込み。
 例えば、小岩栄光キリスト教会の吉山宏牧師に、寄稿文に以下のコメントを書きました。

「この寄稿については、まさに心から感謝しております。
7月5日の小岩栄光キリスト教会の主日礼拝の後で、本寄稿の原稿を吉山先生から、読んで感想を伝えるようにとの依頼とともに受け取りました。原稿を読み、社内で相談した結果、個人的に感想を述べるよりも、さらに広い範囲で共に考え合うべき課題であると判断し、このような寄稿のかたちをとるに至りました。
 さらに個人的には、小岩栄光キリスト教会は、1955年に私が最初に導かれた母教会であります。教会開拓者の万代恒雄先生が教団を離れ、松山で開拓伝道をなさるのを、高校卒業前後からお手伝いする機会を与えられました。1957年、日本クリスチャンカレッジ入学後、当時神学生として小岩アッセンブリー教会の牧会を始めておられた吉山先生との交わりを持ち、それ以来、主にある交流を続けてきました。その中での今回の寄稿です。深く感謝しております。」

 吉山牧師の寄稿文は、以下のものです。
「神様への呼び掛け」―私たちの神様を何とお呼びするか? <神の御名の呼称―日本の教会文化への変革提唱> 小岩栄光キリスト教会牧師・吉山宏

「提唱の縁起
 事の起こりは、約50年前の1964年の東京オリンピックを記念して、日本伝道に韓国から初来日した趙𨉷基(チョー・ヨンギ)師の義母・崔子実(チェ・ジャシル)師を教会にお迎えして集会した時にさかのぼる。日本の教会を巡回しながら来られた崔先生は、「日本の教会は、天の父なる神様のことを、<あなた、あなた>と呼んでいるが、あなたというのは家で奥さんが自分の主人を呼ぶ時のことで、天の父なる神様に使うのはおかしい!」と強く訴えられた。また、「日本には、神にも種々雑多あるので、ただ<神様>では紛らわしい」とも。韓国では、天の神様は「ハナニム」(「唯一のお方」の意)で統一しているので、多宗教の神とははっきり区別されているという。

アメリカなどの欧米諸国では、夫婦間や友人間だけでなく、大統領など目上の人物に対しても「YOU・ユー」で通用し、問題はないが、敬語を使う日本社会では、神様に向かって「あなた」とお呼びするのは、言われてみれば確かにおかしいし、失礼だと思った。最初は慣れないことではあったが、私はその時以来、極力「あなた」と言わない決心をし、今日に至っている。要は、私たちが日本社会で目上の人々に対して日常使っているような敬語を使えばよいわけで、今ではそれが当たり前のようになっている。天の父なる神様も日本の文化に従って敬い、尊敬する気持ちで、自然体でお呼びすればよいわけである。

あなたの意味
 日本語国語辞典では、「あなた」は「相手を尊敬して呼ぶ語」とあるが、「現代語として普通は、目上には使えない。対等ないしは目下に対して使う。昔は目上に対して使われた。また、妻が夫を呼ぶのに使うこともある。目上に対しては、姓に<様><さん><先生>などを付けたり、職名を呼んだりするのが一般的。<あなた様>は上位者に対しても使えるが、女性語的」と説明している。

 ちなみに、日々の祈りとして主が教えられた「主の祈り」の末尾の部分は、一般に「国と力と栄えとは、限りなく汝(なんじ)のものなればなり」(日本語訳聖書は「あなたのものだからです」)と唱えるが、実はこの「汝」とは、「お前、そちの意味で、目下の者に対して用いる」と辞書にあり、これを知ってか知らずか、私自身も含め長い間使ってきたことを知ってがくぜんとし、以後、当教会ではこの「汝」も使わないことにしている。

欧米慣用語の直訳
 結局、神への呼び方が「あなた」になったのは、聖書の言語と同様に欧米文化、つまりYOUという呼び掛けが誰に対しても通用する慣習から日本語に直輸入されたと考えられる。しかし、欧米社会で問題ないとしても、ここは常に敬語で成り立っている日本社会であるから、そのままでは済まされない。今後、聖書がさらに日本社会に浸透し、根を下ろすためには、最終的には日本文化に適したものに聖書自体の翻訳も文字通り日常社会でも通用する「口語訳」らしく訳されるべきであると考える。

 昔は確かに、「あなた、汝」も目上の者に対して使われた時代もあったようだから、やむを得なかっただろうが、私たちは今の時代の人々に福音を語る責任がある。いつまでも欧米からの受け売り、直輸入のままでは済まされないのではないか。

 これは、神に対することだけではない。皇帝や王たちに対する呼び掛けも同じく「あなた」(ダニエル書2:29、31)と訳されている。皇帝と同じ天皇や大臣たちに対して、日本では決して「あなた」とは呼ばない。また、イザヤ書53章では、明らかにイエスについての預言と考えられているのに、「彼、彼」とわずか12節の中に29回もイエスを彼と訳していることなどは問題で、「このお方」とか「この方」などに訳すべきではないだろうか。

神を愛し、尊ぶ信仰姿勢
 聖書は、私たちへの第一の戒めとして、全身全霊で神を愛すべきことを教えており、さらに「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる」(Ⅰサムエル2:30)と記されている。また、十戒の第4戒には、「あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」(出エジプト記20:7)とあり、この「みだりに」は、英語のVAINにあたり、「軽々しく、不敬に、やたらに、分別なく」などの意味がある。

 私は、人々がよく、創造者なるお方や主イエスに対して、「あなた、あなた」と妻が夫を気軽に呼ぶように言っているのを聞くと、本当に相手をよく知って語っているのだろうかと、首を傾けざるを得なくなる。私たちの神様は太っ腹の愛のお方であるから、それほど神経をとがらせることもないのではないか、たかが神の呼び方ではないかと言われるかもしれない。されど、この世界、宇宙で最も偉大で、尊び、尊敬されるべき人格者である天の父なる神様と主イエス、また共におられる聖霊様に対する呼び掛けの言葉である。慎重にお呼びするのは当然と考えられる。

日本のリバイバルと福音化を目指して
 今私たちは、終末の世にあって教会のリバイバルとそれに続く日本の福音化を祈り、期待している。私たちには、すべての日本国民に福音を証しする責任がある。そのためには、できるだけ一般大衆にも分かりやすい聖書が必要であり、言葉遣いも現代人に通用する教会文化が必要とされる。聖書にパウロも「ユダヤ人にはユダヤ人のように・・・律法を持たない人々に対しては・・・律法を持たない者のように・・・弱い人々には、弱い者になりました。・・・それは、何とかして、幾人かでも救うためです」(Ⅰコリント9:20〜22)と語っている。

 確かに欧米文化にも学ぶべき点は多々あるが、「郷に入っては郷に従え」で、よい日本文化の慣習は当然、教会でも適用すべきである。というのは、今後、時代がどう変化しようが、子どもが学校の先生を、社員が部長や社長を、一般人や平議員が大臣を「あなた」などと呼ぶことは到底ありえない独特な敬語文化に生きる日本にあって、この辺りで日本の教会も、直輸入のバタ臭さから解放され、日本独自の教会文化のもとで変革する時ではないだろうか。

リビング・バイブルの例
 万民のための聖書を初めての人にも読みやすくするために出された「リビング・バイブル」(英語版)をできるだけキリスト教の専門用語を使わずに訳出したという日本語訳は、英語の慣用語にとらわれないで、日本の一般社会に通用するように訳している。例えば、詩篇などで著者が神をお呼びする場合、日本語訳はすべて「あなた」としているところを、やはり直訳ではふさわしくないので、すべて「神様」と言い換えているし、王や皇帝を呼ぶ場合も「あなた」ではなく「陛下」と訳している(ダニエル書2章など)。これは、日本社会の常識だからである。ただ弟子のペテロが、イエスを生ける神の御子キリストと告白した時、「あなた様こそ」と訳してはいるが、そのあとの会話では、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません」とのペテロの言葉を「先生ともあろうお方に、そんなことが起こってたまるものですか!」と訳している。当然「あなた様」より「先生」と呼ぶほうが自然である。今後、日本の敬語社会に聖書が浸透するのに、一つの参考となる訳と言える。

賛美の歌詞も
 昔からの賛美歌や聖歌には少ないが、最近よく歌われるゴスペル賛美などには、神への「あなた」という呼び掛けの歌詞が多く見受けられる。賛美する者はあまり意識しないでごく自然に習慣的に歌っているようだが、時にはあまりにも軽々しい感じがするので、作詞者には誠に申し訳ないが、当教会では「主の祈り」の末尾「汝」を「われらの父」と変えて唱え、歌うようにしており、ゴスペル賛美中の「あなた」を「主」とか「わが主」「主イエス」などに直して賛美している。

 戦後すでに70年、日本での第1回オリンピックを縁起に喚起された神の御名の呼称問題。再び5年後に日本での第2回オリンピックが開かれようとしている今日この終末の時代、主の再臨も迫りつつあるこの時、この辺りで日本の教会が日本社会と文化に浸透するために、神の御名の呼称の変革だけにとどまらず、御霊による一大刷新、変革へと導かれるよう願うものである。」