2015年7月21日(火)③「じっと我慢」

2015年7月21日(火)③「じっと我慢」

 7月15日(水)午後、古いファイルを整理していて見つけたのは、平山正美先生から以前頂いた手紙と藤林益三元最高裁判所長官から受け取ったハガキだけではありません。それらに加えて、もう一通、短い手紙がありました。
 
 大学生への宣教や特徴ある出版事業でユニークな活動を続けられた、有賀寿先生からの、以下のものです。
「頌主
 月曜日、火曜日にはしばらくぶりで遠くからですがお目にかかりうれしく思いました。
 パネルのなかでの「じっと我慢」に共感しました。・・・
「信仰と家庭」最終号を見つけ、「感謝をひとこと」を先生に送るつもりになりました。ご覧ください。
 二日のよい学びの時を与えられことを感謝しながら・・・
                    有賀寿          」

 日付は書かれていないのですが、10×20の趣のある、「有賀用箋」をよく記憶しており、なぜ、平山先生からの手紙や藤林長官からのハガキと一緒に大切に保管したか、その理由も覚えていました。
 有賀先生が言及なさっているパネルは、発足したばかりの共立キリスト教研究所が、積極的に主催していた研究会議の一つでのパネルです。
 「じっと我慢」との私の発言は、マタイ、マルコ、ルカの間の同一場面の描写間に見る表現の差違に対して、どのような受け止め方をするか・共観福音書問題に対してです。
 私の基本的態度は、差違を不自然に調和させたり、矛盾対立と価値判断するのでもなく、差違を含めて聖書テキストの下に、「じっと我慢」して立ち続けるのだとの理解であり、提唱なのです。
 
 このパネルでの提唱をもとに、後に論文を書いた際、「じっと我慢」と私が書いた表現は、論文に相応しくないと編集担当の方が削除したのです。それに対して、私は、再度その表現を用いることを主張。その後、私からすれば、摂理的導きで、「じっと我慢」は論文に残ったのです。
 そんな経緯もあって、有賀先生の「パネルのなかでの『じっと我慢』に共感しました。」は、深い励ましとなり保存したのです。

 昨日7月20日拙宅で開いた、高校の同窓生の祈祷会・ペン剣祈祷会で、参加者の一人から、岩波の『図書』2015年7月号を頂きました。今日、紹介された、山我哲雄先生の、「イエスの最後の言葉」を熟読しました。
 「じっと我慢」が、譲ることの出来ない鍵であると改めて確認しました。