2015年7月11日(土)③「ペテロ・ネメシェギ神父の手紙」その2

2015年7月11日(土)③「ペテロ・ネメシェギ神父の手紙」その2

[2]ネメシェギ神父との出会い
 神父との最初の出会い。それは、1967年10月米国留学から帰国後も大学院の学びをめぐり、なお惨めな経験していた頃です。

 ハ−バ−トで共に学んだイエズス会のスミス神父が上智大学で学ぶよう薦めてくれていたことを思い出し、上智大学神学部で学ぶ可能性を問い合わせところ、神学部長・ペテロ・ネメシェギ先生は即刻葉書を下さったのです。
この葉書を、扉に「主において愛する兄弟、宮村さん、ペテロ・ネメシェギ」と記されている、ネメシェギ神父の名著・『神の恵みの神学』の間に挟み、40年間。今や、この葉書は、年月のみが醸し出す芳香を放っています、少なくとも私にとっては、そうです。
「お便りありがとうございました。
こちらの大学院で先生のような方が勉強なさることは出来ることでございますから、ご都合のよい時に相談にいらして下さいますようお願いいたします。
私の方の都合では、今週の金、土曜の午後こちらにいますので、お話できると思います。他の時間でもお電話下さいますと、私のあいている時間をお知らせすることができるのでございますが、よろしくお願いします。
では、お待ちいたしております。         敬具」
 
この葉書は道を開き、実を結び、私は上智大学神学部で学ぶことが出来たのです。
 少人数を対象とする授業はそれぞれ行き届いたもので興味深いものでした。
 しかしその中でもネメシェギ先生による個人指導は特別な恵みの経験でした。
二週間に一度、練馬区関町にあるイエズス会の寮にある先生の質素な部屋を訪ね、与えられた課題について私なりに思索し調べてきたことを申し上げる。じっと先生は耳、いや心を傾けながら、一言、二言応じてくださる。3年間の徹底的な一対一の個人指導は、今思い出しても至福の時でした。
 
 そのようなある日、初代教会をめぐる一論文を読み考察している時、
「この神学では、殉教はでません」と、温厚な先生が静かに言い切り、神学するとは何か心構えの根本を私の心の深く刻み込んでくださいました。
 
この消息を、時空を越えて、2000年、沖縄で、キリスト新聞のコラムに以下のように記しました。
「『あなたの慈しみは命にもまさる恵み、わたしの唇はあなたをほめたたえます。』(詩篇63篇4節)。
 
1997年4月29日、畏友天田繋作曲、日本二十六聖人『長崎殉教オラトリオ』全十景が、1597年の長崎での出来事を記念して、上野・石橋メモリアルホールで上演されました。その日、伊江島を一人で歩き、ハンガリーへお帰りになったネメシェギ神父の言葉を思い出していました。
  埼玉県寄居キリスト福音教会の一牧師を、『キリストにある兄弟宮村さん』とネメシェギ教授は温かく受け入れてくださり、1968年4月から3年間、上智大学神学部で学ぶ道が開かれました。二週間に一度、イエズス会の寮にある先生の部屋で、与えられた課題について考え、調べてきたことを申し上げる。それは、今思い出しても至福の経験でした。そのようなある日のこと、初代教会をめぐる一つの論文を読み、考察していたとき、『この神学では、殉教はできません』と、温厚な先生が静かに言い切られました。
  
 今年(2000年)六月、沖縄で開かれた第四回日本伝道会議への一つの応答として、上記のオラトリオを沖縄で上演できたらと幾人かの者が準備のための小さな一歩を踏み出したところです。時・歴史、場所・空間の隔たりを越える教会のリヤリティーを、『命こそ宝』の島の現実の中で告白する者たちの証しです。
星野富弘さんの詩への共鳴として。
  『いのちが一番大切だと
   思っていたころ
   生きるのが苦しかった
   いのちより大切なものが
   あると知った日
   生きているのが
   嬉しくなった』」