2015年5月22日(金)③敬愛する同志大阪太郎先生から、

2015年5月22日(金)③敬愛する同志大阪太郎先生から

 
「御無沙汰しております。
ペンテコステの説教で、先生の歩みを例話として使わせて頂きました。先生の歩みはやはり時に「御霊に導かれ」時に「御霊に禁じられた」先生ご自身がおっしゃる通りの徹底した聖霊信仰だと確信し、感謝しております。私は今年からOBIなどでも教えることになり、色々と忙しくしております。6月15日には福音主義神学会の春の研究会があります。お会いできれば幸甚です。お働きの祝福を祈りつつ。よいペンテコステの日をお過ごしくださいませ。」とメールと以下の説教要旨を受け取りました。
私なりの、それなりの闘いを熟知している君代が、「良かったね」と、深い一言、感謝

ペンテコステ礼拝説教要旨『徹底した聖霊信仰』(ガラテヤ5:24,25他◆2015年5月24日)
2015年5月22日 15:59

「大坂先生はペンテコステだね。やっぱり。祈りで解ったよ」と見知らぬ紳士に呼び止められ、握手を求められたのは今から七年前の秋、神戸で行われた学会でのことだった。しばし話すと件の紳士は福音派の聖書学者として有名な宮村武夫先生だと解った。神学校時代何度も引用していた本の著者が目の前にいるのだ。感動した。それ以降、学会やFacebook上などで少しのお交わりを頂いている。そんな宮村先生のモットーは「徹底した聖書信仰・徹底した聖霊信仰」。アッセンブリーの教会で救われ、福音派の神学校に学び、主流派の学校で学びを深めた先生は今日も聖霊に導かれて歩まれている。確かに徹底しておられるのだ。

しかし良く考えると「徹底した聖霊信仰」というのはある意味でキリスト者としての当然の帰結だとも言える。なぜなら聖霊キリスト者の生の全領域において働らかれる、力を付与する臨在(God's Empowering Presence)だからである。ペンテコステの日、全教会、全信徒に働く聖霊の働きについて二つの事を学んでみたい。

Ⅰ.聖霊によって始まる
ペンテコステの日はよく「教会の誕生日」と呼ばれる。み子イエス・キリストは十字架につけられて死に、葬られた後三日目によみがえり、その後四〇日に渡って弟子たちの前にご自身を現されたのであるが、ご自身が天に昇られる前に、弟子たちの上に聖霊が下ることを語られた。その約束の聖霊を待ち望んで彼らが祈っている時、聖霊が目に見え、耳に聞こえる形で彼らの只中に臨在し、そこから信者の群れ、教会が生まれたのである。

しかし聖霊の働きによって始められたのは地上における教会だけではない。実に信徒一人一人もまた、ヨハネ3:5に示されている通り「水と(或いは「即ち」)御霊」によって新しく生まれた存在である。そう言うとあるものは言うかもしれない。「私の入信時の体験はそんなに劇的なものではありませんでした。」と。しかし、考えてほしい。一体誰が自分が呱々の声を上げた「その日」を覚えているだろうか。しかし聖書は「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません」と主張している。そうであればマクロ(=教会)においてもミクロ(=信徒個々人)においてもキリスト教(or者)の起点は聖霊にあることは不動の事実であり、神の奇蹟なのである。

Ⅱ.聖霊によって進む
このように「聖霊によって」公同の教会は生まれ、歴代の全ての真正なキリスト者は生まれたのであるが、聖霊の働きはその出発点に関わるだけではない。

使徒1:8には聖霊が臨まれるとき、主の証人となった弟子たちはエルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、イエス・キリストの証し人になることが記されているが、確かにサマリヤ(8章)においても、異邦人宣教(10章)においても聖霊は信徒の上に下ったし、その後のパウロの宣教などを見ても、彼らは都度都度に聖霊に導かれて宣教をしているのは明白である。

このことは信徒個々人においてもまた同じだ。ガラテヤ5:25には「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではないか」とある。ここの「もし、、、」は仮定的なものではなく、当然予期される帰結を現している。つまりパウロは信徒たちに「確かに御霊によって生きている私たちは、御霊に導かれて進もう」と勧めているのである。その歩みはまた律法を否定する無軌道なものではなく、寧ろそれを成就する倫理的な歩み(=御霊の実)である。キリスト者の成長はひたすらに聖霊により頼み続けることによって造られていくのである。
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徹底した聖霊信仰を標榜する宮村先生の信仰の始まりは勿論「聖霊によって」であった。所謂「男子御三家」の頂点、開成高校の高校生だった彼はひょんなことから小岩教会の伝道集会に導かれ、その集会後、後に宇都宮栄光キリスト教会の牧師になる秋本幸二青年から一冊の聖書を譲り受け、マタイ9:22の「娘よ、心安かれ、汝の信仰なんじを救へり」のことばに捕えられて入信した。アッセンブリー教会で聖霊の臨在に触れた彼は更なる学びを求めて福音派の神学校に進み、留学して「知の殿堂」、ハーバード大の神学部に学んだ。帰国後は上智でも学ばれた。本当に異色の経歴である。その後は福音派の神学校で教鞭をとり、沖縄で牧会をし、今はクリスチャンメディアの編集長として活躍中だ。御年76歳の先生は、一度は脳梗塞に倒れるも変わらず旺盛な執筆活動を展開されている。その宮村先生が昨年のペンテコステにこう語っていた。「信仰の初めから聖霊信仰と聖書信仰を教えられた恵みを感謝し、今この時点で聖霊信仰と聖書信仰をなお提唱できることを感謝します。」もう一度言う。徹底するとはこういうことだ。私たちも徹頭徹尾、聖霊信仰でいこうではないか。更なる聖霊の満たしを求め、共に祈ろうではないか。