2015年4月29日(水)③ 《 講 演 》「聖書をメガネに、童謡やいろはガルタを見れば」

2015年4月29日(水)③ 《 講 演 》「聖書をメガネに、童謡やいろはガルタを見れば」

2014年3月31日
青梅月曜聖書を読む会
宮村武夫

[1] 序
おはようございます。懐かしい方々のお顔を見ることができうれしいです。
 1970年4月1日から1986年3月31日まで、私は青梅キリスト教会の牧師でした。それで自動的に、もみの木幼児園の園長となり、ちょうど30才の時から40代の半ばまで生活を送りました。

[2]沖縄へ
(1)「行くところがなくて」
1986年3月の沖縄移住をめぐり、「沖縄へ何か大きな目標があるのですか」とか、「神さまから示されて行くのですか」と聞かれて、戸惑いました。
  私どもは行くところがなくて沖縄へ行ったのが本当の話です。しかし、そう言っても、「へぇ−、そんなことないでしょ」と本気にして下さらない。
神学教育に専心したいと決断し、2年、3年と準備を重ねて後ろの橋を切っていたわけです。ところが、ある方の思いもかけない行為で一時的に進むべき道が閉じられ、前に進むことも、後ろに戻ることもできない。
その時です、「私たち、どうしたらいいの」と、結婚してから初めて君代が涙を流したのです。その状況の中で、沖縄へ導かれたのです。だから、行くところがなくて沖縄へ行ったのです。
              
(2)躁鬱に
確かに行くところがなくて行ったのですけれども、その沖縄に25年滞在したのです。青梅での16年よりも年近く長いわけです。その期間、いろいろなことを教えられました、そうです、沖縄から離れた今でも教えられ続けています。
「沖縄は終の棲家だ」と、よく君代は言っていました。その沖縄で、2年目と比較的短期間に会堂建設の恵みに与り、その中で躁鬱、それもかなり厳しい躁鬱になりました。当時、一般的には、躁鬱は隠す傾向がありました。特に牧師ですから、「牧師なのに躁鬱になるの」と、いい証にならないとの理解が普通でした。
ところが首里福音教会の教会員、そんなに多くはなかったのです。―それでも最終的には50〜60人―、その半分ぐらいは直接間接的に医療従事者。私の主治医・中嶋先生は優れた精神科の医師で、私の説教を最も深く聴いてくれていました。彼以外にも精神科の医療従事者が何人も。それで君代が私の様子に気付くか気が付かない間に、「先生、始まったんじゃない?」と君代に。ですから隠すとかなんとかの話ではない。みんな知っている。
私の説教は普通で30分〜40分、ところが躁の時は1時間でも、それなのに鬱の時になると15分間、20分がもうやっとなのです。
私は長年レジメを配布した上で、それを見ないで説教をし続けていました。ところが欝の症状の時は、レジメを読むのがようやく―しかも上なんか向けないで下ばかり向いたまま読んで―だいたい15分で終わる。ところがおっとどっこいで、そんな時に限って、「今日のメッセージ、本当に良かった」と、真実な声を聞くのです。そうです、いろいろなことを経験しました。

(3)脳梗塞発症
すっかり調子が良い期間がかなり続き、「躁鬱、治ったみたい」と私が言っても、中嶋先生は、「先生、一生続きますよ」と、冷静に釘を刺して下さっていました。かくして躁鬱の中で、説教を続け、牧会をなし、沖縄聖書神学校で教え執筆を重ねていました。
説教については、ただ1度、主日礼拝を休みました。
それは。協力宣教師だったリーズナー先生ご夫妻が、私の状態を見かねて、「先生、お願いだから休んで」と、代わって説教して下さり、私は一番前の席に座り聴き入ったのです。

こうした月から月、年から年を重ねている中で脳梗塞脳梗塞は、フォー・アフターと、明確な節目になる、私たちの人生にとって恵みの出来事でした。
2009年12月18日脳梗塞発症、その後3箇月の入院生活が毎日が楽しくて、楽しくて。確かに若い時に4年間留学した期間は、私の人生にとって非常に大きな意味がありました。それに対して、脳梗塞は、短期集中留学としての重みを、私たちの生活と生涯に与え続けています。

そうした入院生活が1個月前後経過した頃、面白い症状が起こりました。
確かに躁だけの人もあるし鬱だけの人もあるようです。私の場合は躁と鬱の症状が代わりばんこに出てくるのです。
ですから躁になると夜もほとんど寝ないでどんどん仕事をしてしまうので、これを抑える薬と・・・。
鬱になると「君代と結婚したのはわたしの若気の至りだった」とか、過去のことをしつこく考え出す。さらに「5才の時、母親にあのようなことを言ったのは・・・」と、古い過去にどんどん戻って行く。
その行き着く先は、―自分が存在した(生まれた)ことが、すべての原因だと追い込んで、生まれた尊さを否定―君代がお使いに行くのにも、帰ったらどうなっているか危惧するほど突き詰めてしまう。
「それは病気だ」と言われると、私は「そうじゃないんだ、これは罪の問題であって、罪の原因を考えると・・・」。このような状態になると始末に負えないわけです。ですからとにかく少しでも気分を上げる薬を飲まなければ・・・だから抑えると上げると両方の薬を飲んでいたのです。
しかし入院中に鬱の状態が無くなって、躁の方だけが残る。その病院には精神科がないから、いつもかかりつけの「仲間クリニック」(医療従事者と患者は仲間だとの確信から命名)に行くようにとの主治医の指示に従い、中嶋先生の診察を受け、今までのように鬱の薬を投与する必要がないと判断に従い、躁を抑える薬だけに。
そうしている中でも、とにかく「ウフフ、ウフフ」と、嬉しさが自然に込み上げて来て、夜なんか困るのです。夜勤の看護婦さんが病室を懐中電灯で見回る時に、「ウフフ、ウフフ」とベットの中で笑っていたのを照らしたら、とうとうおかしくなったと思われるのではないかと案ずるほどでした。
ある朝、聖書を読んでいて、バビロン捕囚のイスラエルの民が解き放たれたとき、「舌に主が喜びをおいてくださった(詩篇126:2)」との表現を読み、「これだ」と直感しました。
私も鬱・自分の罪意識に捕らわれていた、その捕らわれの事実と共に、「喜びを舌の上に」の事実も確かだ。そうです、躁鬱の鬱がなくなった一面も確かにあるけれども、ただ単にそれだけではない。聖霊ご自身が深い喜びを我々の存在の中に注いでくださっている事実。それはもみの木の時代から深く教えられてきた、「存在の喜び」と深く結びついているのは確かです。
主が我々に喜びを与えてくれる、解き放ち(解放)の喜びを。

(4)沖縄で聖書を読む
以上申し上げてきたことは、行くところがなくして行った沖縄で経験したことなのです。
アメリカから日本に帰国するときも、同様な経験をしました。
「こんなに良い環境ではないか、ここで聖書の勉強を続け、学びを深めれば。なぜ今、日本に帰るのか」と。それは好意・善意からの助言です。 しかし私たちは、埼玉県の寄居に帰ったのです。寄居で聖書を読み、寄居で聖書を伝えることを選んだのです。
アメリカで聖書を読み続けて行く、それは貴重なことであると私なりに分かりました。けれども聖書を日本で読むことは、私にとっては、「一寸の虫にも五分の魂」的課題であったのです。それを青梅や首里の教会において求めたのです。その課題を礼拝と神学教育機関で教え続け担ったのです。

(5)聖書で沖縄を読む
沖縄で聖書を読む、ところが程無くして、「沖縄で聖書を読む」課題を自覚するようになりました。
それは何かと言えば、「聖書の神さまが沖縄の神」と表現・理解したいのです。聖書を成立させ、聖書の歴史を導いたお方が、沖縄を存在させ、沖縄の歴史を導き、沖縄に係わり関与しているとの理解です。
沖縄で読んでいる聖書の神が、沖縄の歴史や現実にどのように関与しているか、神さまの言い分から沖縄の歴史、沖縄の現実、沖縄の苦しみ、沖縄の全てを見て行く。沖縄で聖書を読むとは、沖縄で読んでいる聖書の神が、沖縄の歴史に、沖縄の現実にどのように関与しているかを見抜いて行く。今私が用いている表現を用いれば、聖書をメガネに沖縄を見る営みです。

(6)聖書をメガネに
「聖書をメガネに沖縄を見る」と言う時、二つの中心点があります。
①一つは、メガネが必要だとの自覚の重要性です。
自分の視力、自分の認識、もっと言えば見分ける営みの中心である自分自身の理性、さらにもっとはっきり言えば、自分自身に問題があると認めなければ、メガネをかける必要に気付かない。
聖書をメガネにという時には、人間の理性や人間の判断・・・もっといえば「私が罪人だ」「神さまに創られた本来の道からずれている」との自覚が不可欠、これが根本の一つです。

②しかしもう、一つの根本。
確かに私はずれており、問題であるけれども、ずれているからもう駄目だ、罪人だから「もう、ほっとけ」ではない。
罪を犯し、ずれた私を本元へと回復へと導いて下さるお方の救いの御業。今の私の言葉で言えば、忍耐をもってリハビリをなくしてくださるお方に信頼して、すべてを見る、これが「聖書をメガネに」であり、リハビリの提唱です。

[3] 童謡やいろはガルタを聖書をメガネに見れば
沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む20数年。その中で躁鬱と脳梗塞を経験したのです。
その上、思いがけない事態に直面しました。私たちなりに心血を注いだ地域教会、そこへ他の方々の忠告や戸惑いを無視して招いた後任の思いがけない言動で、教会を退くことになり、組織や予算から全く離れたのです。この出来事を通して、地域教会や沖縄だけではなく、いつでも、どこでもメガネを通して見る、さらに普遍的な道に導かれたのです。その一つが童謡説教です。

(1)最初の童謡説教
最初の童謡説教は『どんぐり ころころ』でした。
『どんぐり ころころ』を知っている世代は、今日では、だいたい古い世代。
『どんぐり ころころ』、みんな知っていると考えていましたが、知らない子どもたちが結構いるのです、驚きでした。
「どんぐり ころころ」、みんなで一緒に歌いましょうか。
「♪どんぐりころころ どんぐりこ お池にはまって さあ大変」
「さあ大変」なことが人生には起きるのです。私たちが首里福音教会から出るなど、私どもにとって、まさに「さあ大変」だったのですね。
その時に私たちの長男忍望が電話をかけてきたのです。それで「何をおたおたしているの。お父さんたちは、教会の一番弱い人たちと一緒に生きてきたじゃないか」。
その時、教会に行っていない長男、私にとってはもう胸の痛みです。
神学校で教えていると、あの家族の長男がこの家族の次女が学生として入学してくる。「宮村先生、忍望君はどうしている?」と聞かれると、「うっ」一瞬言葉に詰まるのです。その忍望が、「おたおたするな」と、励ましてくれたのです。それは、私にとって、「どじょうが出てきて」なのです。思いもかけない、「さあ大変」という時に。
さらに根源的には、イエスさまという方は―私が高校生の時に出会ったイエスさま、聖書の中心であるイエスさま―私にとっては思いもかけないお方こそ、誤解を恐れないで言えば、「どじょうが出てきてこんにちは」なのです。

童謡説教みんなで歌いつつ、問答の形式で進めます。
たとえば「どじょうさんは、何語でどんぐりさんに話しかけたのだろう」と、合間に、一緒に歌っている人々に私が問いかけます。
そうすると、しばしば子どもたちから出てくるのは、「英語!」です。英語を話すことは、すばらしいと子どもなりに判断しているのでしょうか。
中には頭のいい子がいて、「どじょうさんが話すんだから、どじょう語!」と、ちょっと得意げに答えます。
すかさず「どんぐりさん、どじょう語分るかな?」と私。さらに頭の切れる子が「どんぐり語!」と。
歌いつつ、こんな問答を重ね、どじょうが自分の言葉や自分の立場に留まるのでなく、「さあ大変」のどんぐりのところへ来て、どんぐりが分かる言葉で、「こんにちは」と話しかける、これがポイントと一同で確認するのです。
エスという方は神さまとして、そこに存在するだけでない、「まことのどじょうがどじょうのままではなくて、実にまことのどんぐり、まことの人となってくださった」。そうです。問答を続け、さらに、「さあ大変、みんなどんな大変にあった?」と。

さらに、「ぼっちゃん一緒に遊びましょう」。
「さあ大変」のどんぐりさんです。しかし、そのどんぐりさんに、どじょうさんが本当に言いたいことは?どじょうさんが願っていることは何か?それは、どんぐりとどじょうが一緒に遊ぶことです。
では、それはどう意味なのか、そんな説明をし考えていては童謡説教にならない。すかさず、一緒に「どんぐり ころころ」と歌うのです。
しかしここに非常に深い意味があります。神さまが私たちに求めているのは、「一緒に遊ぶ」ことです。旧約聖書における代表的人物アブラハムを、神さまは神の友と読んでくださったのです。友は、幼なじみの友のように、損得やそろばん勘定、利益になるかどうかなど関係ない。そういう物差し、そういうそろばんと関係なく、一緒にいる、一緒に遊ぶことが中心・中核なのです。
この事実を、もみの木時代、「存在の喜び」と私は表現していました。
「ぼっちゃん、一緒に遊びましょ」と、ぼっちゃん・私たちと、遊ぶことを願っておられるお方がおられる。私たちは何ができる、何の役に立つかの基準でなく、ただ「一緒に遊ぶ」、神と共に遊ぶ、神と共に喜ぶ視点で愛され、創造されているのです。一緒にいる、一緒に過ごす、一緒に触れ合うことが神さまの方からの呼びかけ。まあそういうメッセージを童謡説教で伝えようとしています。

(2)寅さんの衣装で
末弟三郎は、東京の足立で牧師です。私とは12歳違い、子供の頃から私たちはけんかひとつしたことがない。末弟のところに行くと、本当にリラックスして話が出来、話が聞けるのです。
ある時、「寅さんの恰好で童謡説教やったらどうだろうか」と、話したのです。そしたら「おもしろいね」との返事。
次の日柴又へ行った。行ったことのある方はご存じのように、あそこの寅さんの記念館で寅さんグッズがいろいろ売っているのです。私ちょうどその時たまたまお金を持っていたので、帽子から雪駄まで寅さんグッズ一揃い買った。義妹もちょっと驚いたのですが、パッと支払いサッと足立に帰って来たのです。
それから沖縄に戻って、「これを着て童謡説教をやる」と言ったら、君代が「バカ言っちゃ困る」と。それでもせっかく大枚払って買ってきたのですからね、どういうふうにしてこれを着たらいいか私なりに考えたのは、ショック療法です。  
その当時、週に3回、君代はライフセンター書店でアルバイトをしていて、夕方に私は君代を迎えに行く。その迎えに行くときに、帽子から雪駄まで全部寅さんスタイルでパッと店に入って行こうと考えたのです。良いの悪いの言っている間がない、これにつきると思い実行したのです。残念というかよかったというか、お客さんがいなかったのですけれども。これで私は吹っ切れたのです、もう否も応もない、それからは童謡説教と寅さんスタイル。
だんだんエスカレートしてきて、寅さんスタイルで飛行機に乗りたいと言い出したら、君代が「私は寅さんと結婚したんじゃない」と言い出して、残念ながらJALに寅さんのスタイルで乗れなかったのです。今もって私の痛恨の・・・。
とにかくそういったことで、童謡説教その中心は、童謡の中に驚くべき聖書と共通したメッセージがあるとの確認です。これが、第一期童謡説教なのです。

(3)25年振りに関東に戻って
2009年12月、沖縄で思いもかけず脳梗塞になり、その後2011年5月、25年振りに関東に戻って来ました。
関東で何をするか。私の念頭にあったのは、沖縄へ行くようになったきっかけである神学校教育の原点に戻り、特に寮生活、具体的には既婚者の家族寮に住んで、学生家族と生活を共にすることでした。
ところが、これまた高齢などを理由に、私にとっては思いがけず(世間一般の常識では当然)道が閉ざされたのです。
その結果、旅芸人みたに声がかかる所で説教して何がしかの謝礼を貰う、それで生きて行く。ある人が、それろ「生業(なりわい)」としているとある人が率直に書いたのです。それを目にした時は、あまりだと違和感をもったのですが、その通りだったのです。定収入がないのですから、あっちの教会、こっちの教会に行って・・・。しかしそれによって支えられる日々、月々は、私たち夫妻にとって深い意味のある経験でした。
私は長男で、それなりに家業を引き継ぐことを父親は考え、小学校から中学受験に備えていたに違いないのです。ところが高校時代キリスト信仰に導かれ、マタイ6章24節、
「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」に、素朴に応答して、日本クリスチャンカレッジに進み、そのまま40代を、そのままで60代を君代と共に生きて来たのです。
ところがですね、神さまの言い分がはっきりあるのです、その時は分からなくても。

今回、この講演会に私たちを招いて下さる橋渡しをしてくださった、鮫島ひふみさんも、ブログとユーチューブを混同なさっているようです。
何よりも、私もブログなるものを―ブログという名前を聞いたことはありましたけれど、ブログが何か―まったく分からなかったのです。
日本センド派遣会のホームページを作りたいと理事会で私が提案したのですが、なかなか実現しなかった。
「宮村先生、長野県の水草牧師に頼んでブログを始めたら‥‥」との話が出て、私が水草牧師に電話したのです。
私の不器用をよくご存じの水草先生は、「宮村先生、書いただけだと分からないでしょう。今、説明しますから、パソコンの前に座って、説明を聞きながらやってください」。私は10分か15分で終わると思っていたので、「君代、ちょっと携帯を耳のところで押さえていて」と、頼みました。
確かに普通は10分から15分で終るのでしょうけれど説明を聞いてもよく分からない。よく分からないから、また聞きかえす、ついに1時間ぐらい。そのうちに君代の手がブルブル震えてくるのです、ずーっと手で押さえていたので。
それでもなんだかんだと言いながらブログをスタートしたのです。それで25年間の資料(ワープロの時代からのものも含めて)を、ブログを通して活用する道が開かれたのです。
確かに組織も、予算も何もない。けれども、地味な25年間の蓄積はあるわけです。それをブログに張り付けるようにしたら、結構見て下さる方々がいる。

この方法なら、誰にも迷惑をかけない。予算がないからと呼び掛ける必要もない。勿論問題点もあります。誰が見ているか誰が読んでいるか私としては分からない。しかし沖縄で自分なりに聖書を読み、自分なりに聖書を伝えてきた、その資料を、今ここで伝えることを許されている恵みは圧倒的です。
私が心から尊敬している佐藤全弘先生(無教会の立場の方)が、「不特定多数の人たちに、今新しい働きを始めたのだ、何十万の人たちに向けて始めた」と手紙に書いて下さったのです。

私は「えー!」と。佐藤先生もブログなるものを何も知らないから、こう書いているのだと思っていた。
ところがその後、今度は、青梅キリスト教会出身の和田兄が、「宮村先生、ブログをさらに効果的に活用するため、フェイスブックを始めるといい」と。
ブログについては名前だけは聞いていたけれども、フェイスブックなど名前も聞いたことがない。ところがひょっとしたきっかけから、フェイスブックをスーッとはじめることが出来たのです。そうすると、ブログとフェイスブックそれぞれの特徴を生かし、単に足し算的効果ではなく、掛け算的効果も見えてきたのです。

そのうちに今度はユーチューブ。
ユーチューブなど、もうフェイスブックどころではない。なんのことかさっぱりわけが分からない。
ところが忘れもしません、ちょうど一年前、2013年4月3日にユーチューブで童謡説教を始めたのです。

そのまた二年前に岩崎淳ご夫妻に、市川の聖望キリスト教会で出会ったのです。岩崎夫人オクサナ姉はロシア人(ロシア正教)で、日本へ来て非常に明確なキリストとの出会いを経験したのです。そして、ご主人の淳さんのために祈り続けていたのです。
この淳兄は、東京の下町の江東区木場七丁目の出身、彼の祖父は、江東区木場七丁目の大地主でした。実に驚いたことには、その彼の祖父から、私の父親は広い土地を、貯炭場また重油のタンクなどのために借りていたことが分かったのです。
こうした江東区木場七丁目繋がりの岩崎淳さんと、ちょっと風変わりな洗礼準備会を始めたのです。というのは、洗礼を受けるか受けないかも決めていないし、ましてやいつ受け入れるなど決めないのに、洗礼準備会を始めたのです。時と場所を定めて、継続的に聖書を学ぶのが一番だと私は確信したからです。
「月一回会おう」と。淳兄は、は明治学院の出身で、聖書をめぐり、いろいろと知識はもっていましたが、疑問もいっぱい。
自分のロシア人の妻は神さまに選ばれていて、そのことを彼も喜んでいたけれども、「自分は選ばれていない、自分はダメだ」と断じていました。

彼は30と40代、バブルの前後、経済的に頂点からどん底まで経験した人なのです。それなりにいっぱいの疑問をもって、一回目の洗礼準備会に参加したのです。
私はと言えば、いつもの通りでした。「聖書は、『初めに神が天と地を創られた』と明言している。この事実をはっきりしなければ、あと何をやってもだめ。『初めに神』だ。自分の経験であれ自分の疑問であれ、何かを初めにもってくると、それが神になり偶像になる。『初めに神』だ」。その一点が淳兄の心にフィットしたのです、今まで持っていた疑問全部、「あっ!そうか、初めに神なんだ」と、心定まると、問題にならなくなったのです。

一回目ではっきりしてしまったのですから、洗礼準備会を続けていく必要がなくなってしまったのです。では、それからどうしたか。
二回目以降は、「自分が知ったことを、宮村先生、下町(江東区木場七丁目)の人たちに伝えたい、伝えるべきではないか」、さらに岩崎兄の経験の中で身に着けた、ユーチューブの技術を活用しよう、「ユーチューブをやろう」と。

私はユーチューブをまったく知らないし、その活用などピンとこない。とにかく淳さんは、粘り強く一年間「ユーチューブをやろう」、「やろう」と。そればかりでなく、色んな話をして一年間、月一回会っていたのです。

その後、一つの転機が訪れました。私の後輩であり、私の2つの神学校での教え子である池田勇人牧師の葬儀に出席したのです。
池田牧師は、「宮村先生、沖縄から帰ってきたら一緒に童謡説教やろうね」と、話していました。ところが彼が急に召されてしまったのです。

どうして、そう決心したのか全部は自分でも理解できませんが、池田牧師の葬儀から帰ると、「とにかくユーチューブをやろう」と、岩崎兄に伝えました。
それで始めるに当っては、一期の童謡説教がありますから「童謡説教から始めよう」。それで去年2013年の4月3日に一回目(その前に撮影して)を流したのです。
その日から一回も休むことなく毎日。初めは教会で2回ほど集録したのです。しかしその後は拙宅で。1回に七日分、1日分5分をめどに集録し続けて来ました。
洗礼準備会として、第一歩を踏み出した岩崎淳にとっても、この動画撮影の労は、非常に良かったのです。確かに、淳さんは時間を割いて撮影、さらに編集と大変なのです。しかし誰よりも早く、メッセージ七日分を集中して聴き続けることを通して、彼の信仰が成長している様が私にもよく分かり、それは私にとっても大きな喜びです。
はばかりながらあえて言えば、童謡説教に自分なりに集中しています。

北海道に行かれた下川友也先生(元キリスト神学校校長で私と同年配)が、童謡説教を見、聞いてくださって、「宮村先生の集大成だ。今まで歩んできた全部を一回一回の5分の中に集中している」と、一緒に神学校教育のため労して来た仲間として、励ましてくださるのです。私は神学教育を止めたけれども、神学教育は続けている。淳兄との共労は、私にとって実に大切なのです。

「聖書をメガネにして、すべてのものを見ていく」。どんな童謡も。
たとえば北原白秋の例でいうと、北原白秋キリスト教のどんな影響があったかについては、これは議論がある。それについて私は全部のことが分かるわけではない、でも私は非常にはっきりした確信に立ち話をするのです。
「聖書の神さま、アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神 イエスキリストの父なる神が、北原白秋を母の胎内に奇しい存在として造り、組み立てられた」(詩篇139篇13節)事実については、私は退かない、確信を持っています。そうすると、その事実が北原白秋の生涯と作品の中に影響を与えないはずがない。勿論、北原白秋が、その事実を確信し悟っているとは必ずしも言えない。けれども、私は聖書をメガネにすることにより、その視点から判断するのです。

もっとはっきり言えば、『五木の子守唄』、これはキリスト教の影響など、普通全く考えられない。しかし私に言わせれば、あの『五木の子守唄』の中に実に深い聖書のメッセージが滲め出ているのです。

おどま盆ぎり 盆ぎり
盆から先ゃ おらんど
盆が早よ来りゃ 早よもどる

おどまかんじん かんじん
あん人達ゃ よか衆(しゅう)
よかしゃよか帯(おび) よか着物(きもん)

おどんが打死(うっちん)だちゅて
誰(だい)が泣(にゃ)てくりゅきゃ
裏の松山 蝉(せみ)が鳴く

蝉じゃ ごんせぬ
妹(いもと)でござる
妹泣くなよ 気にかかる

おどんが打死(うっちん)だば
道端(みちばた)いけろ
通る人ごち 花あぎゅう

花はなんの花
つんつん椿
水は天から 貰い水

あの人たちは豊かな人。でも、そこに子守として働いている自分は、お盆が来れば帰れる希望のゆえに、今日の辛い―今でいえば小学校上級生、中学生にもなっていない身での子守奉公―そのことに耐えられる。忍耐。希望と忍耐。私たち夫婦の生涯のメッセージである、ローマ8章25節の響きを、この『五木の子守唄』の中に聞くのです。私にとって驚きであり、聖書をメガネにすると、もう否定しがたい恵みの事実だと言わざるを得ないのです。
自分が死んだならばどうなるだろうか、道端に・・・。そのとき水は、水は天からの貰い水。貰うというのは、あげる人・人格がいるから貰うのであって、最も深い人格的な関係だ。その雨ひとつにしても人格的な創造者なるお方から貰うという、この深い謙虚さが滲み出ているではないか。

[4] 結び
私にとって聖書をメガネとして見る(読む)と言う時、二つの課題があります。
(1)聖書をメガネにするとは、自分の視力・認識に問題があると認めることです。自分の罪の問題に直面して初めて、聖書をメガネにする必要を覚えます。

(2)もう一つ、私も含めてキリスト者の聖書の読み方に問題があるのではないか。メガネのガラス―どんなにきれいな縁であっても―メガネのガラスを見て「ああ、このガラスは流線型だ」とか、「これがどうだ」「あれがどうだ」とかメガネばかりを見るのは、メガネに口があれば「私ばかりをそんなにジロジロ見ないでよ、私を通してものを見てちょうだい」と言うのではないか。

ところが私たちの聖書の読み方は、聖書の中にあれが書いてある、これが書いてあるとメガネだけを見ている。
聖書をメガネに見れば。「私の主人、本当に嫌い問題ありと思っていたけども、聖書をメガネに見れば、この人は母の胎内で、イエス・キリストの父なるお方が奇跡的な存在として造られ、組み立てられた。いやあ何と素晴らしい人と私は結婚したのだろう」と、このような言葉が出てこないはずがない。そのような読み方を聖書をメガネにして経験したい。
聖書をメガネにして、すべての物事を読まないところに私たちの読み方の問題があるのでは。聖書が本当に私たちに与えられている目的に従って読む必要があるのではないか。

童謡だけじゃない、次はいろはガルタを始めました。江戸いろはガルタだけではなく上方も。いろいろな人間の経験を凝縮しています。
たとえば「犬も歩けば棒に当たる」。犬は意識して棒に当たろうと思って歩いていたか、無意識で歩いていたのか。
ただ歩いていれば棒に当たる、これはすごいことだ。
犬も歩けば棒に当たる、
人間生きていれば恵みに当たる。
人間生きていれば何もしなくても、何もできなくても、生きていれば、主は恵みに満ちているんだから、犬が棒に当たるように、人は恵みに当たるのだ。   
私の主人について何の心配はいらない、私の主人が生きていてくれれば恵みに当たる。これはいろはガルタのはっきりしたメッセージ、これを私は沖縄の聖書神学校で犬棒神学、「犬も歩けば棒に当たる、人間生きれば恵みに当たる」、恵みの神学。本当に生きること、生かされること、これはそんじょそこらのどうでもいいことではない。

ただ「童謡」だけではなく、「いろはガルタ」だけでなくて、私の心、私の性格、 私の生涯、私の家族、私の教会。そして大きなことを言うようですが、歴史、さらに神さまが天と地を創られたばかりでなく、これが新天新地になる希望がはっきりしている、聖書をメガネに万物を視野に入れる。
「教会が大きくなった」とか、 「商売繁盛」y「家内安全」、もちろんそれ全部は意味があるのですけれども、そのためにだけ私たちは生かされているのではない。

それだけではなく、私の心、 私の子供の存在、私の家族・親族、私が生かされているこの同時代、私が知る限りの歴史、 私が知る限りの万物、それらの完成を本当に苦しみながら悩みながら望んで生きる。その忍耐と希望こそが、人間として生かされる人間である生き方ではないか。苦しみの中に喜びをもって、犬が歩き続けるように、私たちが生かされ担われて生きる。そして担う者として生きていく、そういう生き方、死に方を聖書から私たちは与えられている。

どんな小さなことも聖書の視点では小さすぎることはない。詩篇119編105節に「神さまのみことばは私の足のともしび」とあります。全部のことは分からなくとも、神さまが私たちを愛のほとばしりとして創造してくださったと確かに聖書に書いてある、このともしびだけで今日生きていけば。明日は明日、明後日は明後日、一歩一歩、そのように今日を聖書をメガネに受けとめる。

2014年4月1日からユーチューブの発信のタイトルは、「聖書をメガネに今日を見る」です。まずこまめに3回シリーズで、「過去」「現在」「未来」それぞれ3日間。聖書は、足のともしびと同時に道の光です。

私たちが聖書をメガネにして生きる時、どんな小さなことも小さすぎることはない。しかしどんな大きなことも大きすぎることはない。そう言った意味で、「新天新地、万物の完成、そのために悩み苦しむ、完成の為に悩む」。
その悩みに耐えていくために、聖霊御自身がお一人お一人に与えられている。一人一人の身体に苦しみ、痛み、衰えがある。身体が苦しめば、宇宙全体が完成に至る悩みを我が悩みとする、その手立てとなるのです。
そう言った意味で、共に「聖書をメガネに今日を生きる」、「聖書をメガネに宇宙の完成を見る」。そのことを月曜聖研の一人一人の目標とする。
また月曜聖研に行くとか行かないとかにかかわらずに、人間であることの喜びとして聖書を与えられている。聖書をメガネにすべてのことを見る喜びが、一人一人の中で実現されるように一言お祈りいたします。

祈り
父なる神さま、聖書を私どものような者が読むことを許されている驚くべき事実を感謝します。
今日、「聖書をメガネに」、私どもの日々のどんな小さなことも、どんな大きなことも見る道について考えて来ました。
私たちは見ること、認識することにおいて、歪みを持つ者です。その歪みを認める力をお与えください。そして歪みを主が耐えてくださっている恵みの事実を覚えて、主が与えてくださった恵みの手段である聖書のメガネを通して、すべてのことを喜びに満たされて、「あることはある、ないことはない」とはっきりと識別できますように。自らの分をわきまえる識別力を私どもに与え、分を果たすようお導きください。
イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン