2015年3月19日(木))③「御使いも指導者も僕」

2015年3月19日(木))③「御使いも指導者も僕」

 2015年2月沖縄訪問宣教の日々の中で、1986年4月から沖縄での牧会生活を始めると並行して、毎月クリスチャ新聞で コラム・「季節の窓」に書き続けた恵みがいかに大きかったか再確認にしました。

そして今、クリスチャントゥデイのコラムについて熟考するのです。
確かに、コラムを書いている敬愛する方々に、組織やイズムの名のもとに、執筆を断念するさせようと圧力がかかる、考えられない恐ろしい現実があります。
 思考停止と小さな権力が結ばれている背景の中で、なお個人として、そうです、一人の人間として志を持ち、執筆を続ける方々がおられるのです。
 またあらたに執筆を始める方々が起こされているのです。 
1987年(昭和62年)10月18日(日曜日)
クリスチャン新聞 コラム・「季節の窓」―ほふられた子羊のみを拝む―
宮村武夫(日本新約教団・首里福音教会牧師)

「御使いも指導者も僕」

「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足元に、ひれ伏して拝もうとした。すると、彼は私に言った。『やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい』」(黙示録22:8〜9)

ヨハネの黙示録22章8節の文頭、「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである」との文章に注意したいのです。「私ヨハネ」とは、強調した表現です。だれでもない、この「私ヨハネ」がと言った感じです。

では、なぜこのように強調しているのでしょうか。それは、すぐ前の6節、7節と意識的に対比させているからです。6節に見るように、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と宣言する御使い。さらに、「見よ。わたしはすぐに来る」と約束なさる主イエスご自身。この力強い確証のことばと約束を含め、ヨハネの黙示録22章7節までの内容は、直接「私ヨハネ」に対し語られ、また示されたのです。「これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネ」なのです。

ところがこの時、「私ヨハネ」は、「御使いの足もとに、ひれ伏し拝もうとする」のです。「やめなさい」と鋭く拒絶されねばならない危険な有り様です。そしてこの「私ヨハネ」に対して、危険な状態からの解き放ちの道が明らかにされています。「同じしもべ」の理解と「神を拝みなさい」との勧告です。

御使い、私ヨハネヨハネの兄弟である預言者、この書のことばを固く守る人々、これら4つのグループが同じしもべと見なされている事実を注目したいのです。ヨハネの黙示録を読むだけでも、御使いの存在は目立ちます。ですから、一つの危険は、コロサイ教会が直面したように、「御使い礼拝をしようとする者」(コロサイ2:18)の動きです。しかし、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」(ヘブル1:14)とある通りです。また、「私ヨハネ」や「ヨハネの兄弟である預言者たち」は当時の教会の指導者であり、それぞれに役割を果たしていたに違いありません。
 その意味では、教会に秩序があります。しかし、それは神に仕えるしもべの間に成り立つ秩序です。主イエスが教え、実践なさったしもべの道です(マルコ14:43〜45)。
 さらに、同じしもべ仲間は広がりを持つことも注意を引きます。「この書のことばを固く守る人々」、つまり、ヨハネの黙示録を最初に読む、小アジアの七つの教会の人々各自は、同じしもべ仲間として生きるように招かれています。各時代において読む人々もそうです。しもべが中心ではなく、主なる神ご自身が中心です。神のご計画に従い、各自使命を与えられ、それを果たして行くのです。

 御使いも指導者もしもべとして生きる。これらを礼拝してはならないことを「私ヨハネ」は教えられたばかりではありません。「神を拝みなさい」と命じられているのです。そうです。神以外の何ものをも礼拝してはならないのです。御使い礼拝、断じて否です。ローマ皇帝の礼拝、断じて否です。「神を拝みなさい」。この一事に徹すべきなのです。最後の最後まで、「神を拝みなさい」と力説し続けるヨハネの黙示録において、子羊イエスを礼拝している事実は明らかです。
「ほふられた子羊は、力と、富と、知識と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です」(5:12)。

 真のしもべとして生き死なれた主イエス・キリストを神として礼拝しているのです。ヨハネの黙示録において、主イエス・キリストの神性を鮮やかに教えています。主イエスは神なのです。それゆえ、主イエスを拝み、礼拝するのです。「私ヨハネ」も、私たちも。