2015年2月、沖縄での日々 その1 2月5日(木)①

2015年2月、沖縄での日々 その1 2月5日(木)①

 昨日4日(水)は、午前中は、日本キリスト教会沖縄伝道所の祈祷会、夜は那覇バプテスト教会の祈祷会に参加しました。
 沖縄伝道所の川越ご夫妻は、1969年4月、私が東京キリスト教短期大学で最初に教え始めた時の学生で、それ以来親しい交流を重ねて来ました。
 それが何と、私たちが2011年5月に沖縄を離れる直前に、長崎から沖縄伝道所へ転勤なされたのです。2012年から毎年2月沖縄を訪問する際には、必ず沖縄伝道所の祈祷会か主日礼拝に参加して来ました。

 1986年4月、私たちが沖縄へ移住した際、沖縄伝道所の池永倫明先生が、いち早く訪問下さり、それ以来、主にある親しい交わりを重ねて来ました。その交わりの記念の一つは、池永倫明先生の著書についての、以下の書評です。

『喪失と発見ー人生の神秘ー』への共鳴
宮村 武夫
(1)序  
本書を手にして、著者との出会いを改めて思い起こすのです。1986年4月、首里福音教会に着任したばかりの筆者を、その頃でも珍しくなっていたコンセット(かまぼこ兵舎)の会堂に、いの一番にかけつけてくださった日のことを。
 本書は、著者が現に牧会なさっている蒲田御園教会で、1990年代に、語られた主日礼拝説教の中から、「牧師をはじめ、教会員が家庭に求道者の方々を迎えて交わり、主日礼拝の恵みにあずかってもらうためのきっかけとして、共に学び合うテキストとして、『ハイデベルグ信仰問答』などと共に用いられること」(245頁)を願い68編を編んだもの、それが出版されたものです。
 68編の主日礼拝説教のテキストは、旧約から6編、新約からはヨハネによる福音書とローマ人への手紙からのそれぞれ11編を中心としています。その全体を貫く特徴をあえて一言で表現するなら、ことばの最善の意味で、正統的と言わざるを得ない。51番目の説教題、「罪の赦しを信ず」に、また「イエス・キリストは、私どもすべての者の代理として、十字架の道を通って、私どもの罪を負って歩まれたのです。・・・まことの神から離れ、離反した人間の受くべき呪いの死を私どもの代わりに御自身が負い、神から見捨てられる死を味わう、その死の恐怖を私どものために主イエスは受けて下さったのです」(57頁)との十字架理解に典型的な実例を見るように、使徒信條の解説書とでも言いたいほどです。それは奇をてらうことなど微塵もなく、「天の父からくる喜び、福音の喜び」(40頁)が滲み出る、生かされるゆえに、生きる者の肉声です。

(2)主日礼拝、礼拝の生活
 本書の源泉、それは、蒲田御園教会の主日礼拝です。なぜ主日礼拝に集まるのかを明確に自覚し、「時間を贖い、時間の主となって下さった、復活と昇天の主は、私どもの時間の中に入って下さり、週日の中に共にいて下さり、聖霊によって働いてくださる。これが聖書の約束です。それゆれに、私どもは、主イエスの復活された主日に礼拝に集められ、一週の生活に押し出されてゆくのです。聖霊において、神に喜ばれる聖なる供えものとなって、神の恵みの支配のもとに献げられてゆくもの、これが礼拝です」(174頁)と言い切る牧師と群れを通して、本書は生まれたのです。礼拝と生活の二本立て、ましてや二元論ではない。礼拝しつつの生活、日々の生活が礼拝、礼拝と生活が一体となる礼拝の生活を見ます。主日から主日への日々を、主日礼拝の喜びをもって歩む礼拝の生活そのものの中から、「どうか、私どもの教会が、礼拝ごとに、祈りのごとに、主の前に新たにされて、福音を受け取り、宣教の委託に応えることができますように」(43頁)との祈りがささげられます。

(3)聖書と教会、聖霊と教会
 礼拝の喜びに生かされる群れに、著者は主日礼拝において聖書を説き明かし続けます。この場合、現に取り上げているテキストだけを著者は念頭に置くのではない。「聖書の中で」、「聖書によれば」(101頁)と聖書全体を常に視野に入れ、「聖書は私どもの心の目を開こうとしています。聖書は、そのことを常に主イエス・キリストとの関わりで告げています」(103頁)との確信に立ち、目前の方々に語り続けます。
聖書全体の流れを重んじ、取り上げたテキストを独善的また浅薄に読むのではなく、正しく、深く、豊かに解釈することを目指す著者は、聖霊ご自身の導きに終始一貫して信頼します。「私どもは真剣に聖書の言葉を聞き、聖餐の恵みにあずかり、聖霊の主権のもとに自らを明け渡さねばならない」(115頁)との決意と共に。 この態度は、「日本のプロテスタント教会の誕生の時にも、劇的な聖霊の経験を当時の青年たちはしたのです。植村正久牧師は、一八七二年の横浜における青年たちによる初週祈祷会において、キリストの神を信じる信仰の素晴らしさに圧倒された経験をしました。ここから、日本のプロテスタント教会は成長をはじめたのです。このように、生けるキリストは、聖霊によって、教会を導き、個人を導き、歴史の中に働かれるのです。」(181頁)とあるように、日本のプロテスタント教会の歩みの最初からあったものです。著者は、「我は聖霊を信ず」と信じ告白する者として、火山の内部のマグマのように心熱くし、聖霊ご自身の全生活の全領域に及ぶ導きを深い自覚をもって証しされている様、実に印象的です。そして 聖霊、聖書、教会の下に、今、ここでラディカルに立ち続ける、この著者が体現している道こそ、各地域にある私たちキリスト者・教会が、それぞれの今、各自のここで進むべき道と静かな迫りを覚えます。

(4)結び
蒲田御園教会の現実に堅く根差す本書が、著者が神学校卒業後、最初の5年牧会なさった北海道に主にある志しをもち立つ出版社から出版されている事実。その後18年、現在では想像できない日々の中で著者ご夫妻が牧会された沖縄、その沖縄で著者からパトンを受け取った思いを僭越ながら抱く筆者が、今この文を書かせて頂いている。地域に根差し、地域を越える、「聖なる公同の教会」のリアリティーに触れる思いがします。
 著者紹介に、「沖縄聖書神学校名誉教師」と明記。これは、沖縄で制約の中で歩みを重ねる者たちに対する、著者の暖かい励ましのサインであり、熱き心の結晶です。
日本福音キリスト教会連合首里福音教会牧師)