クリスチャントゥデイの働きの原点―クリスチャン新聞での経験―

クリスチャントゥデイの働きの原点―クリスチャン新聞での経験―

地域教会で、主日礼拝を中心に説教牧会また神学校や大学での授業を担当して来ました。
執筆活動と言っても、聖書講解などを中心とした限られた読者を対象にしたものです。
 
そうした中で、現在のクリスチャントゥデイの編集長としての働きの原点が、クリスチャン新聞での経験にある事実を認め、感謝しています。
一つは、1986年4月、沖縄へ移住した時から、長期にわたり、月一回のコラム・「季節の窓」を担当したことです。不特定多数の人々への文章を、実在の個人への手紙を中心に書き続けたのは、良い訓練になりました。

もう一つは、さらに早く、1970年の経験です。
1967年10月に、4年間の留学から帰り、寄居キリスト福音教会牧師に復職。1969年4月から東京キリスト教短期大学で授業を担当するようになり、1970年4月には、青梅キリスト教会に転任。
 そうした中で、クリスチャン新聞の、「福音主義とは何か」をテーマにした大型の連載記事執筆の一員に、先輩の先生方に交じって一番若い書き手として招かれたのです。
 以下の3回の記事の記述は、今にして思えば、クリスチャントゥデイの働きの原点であったと、当時訓練の機会を与えて下さった方々に改めて感謝しています。



シリーズ福音主義とは何か<4>

「聖書の豊かさ 生きて働く神のことば」
今週の発言者・・・宮村武夫(日本新約教団青梅キリスト教会牧師、東京キリスト教短大講師)

神に聞き従う

聖書には、一貫して流れる主張があります。唯一の生ける神が語り、神の民はこの語りかけに聞き従って生きよ、という主張です。

たとえば、万軍の主イスラエルの神は、預言者エレミヤを通して、「ただわたしはこの戒めを彼らに与えて言った、『わたしの声に聞きしたがいなさい。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。わたしがあなたに命じるすべての道を歩んで幸を得なさい」(エレミヤ7:23)と宣言します。

中心点は、はっきりしています。イスラエルが、神の民となり、神の民として祝福の中に歩み続けうるのは、ただ神の声に聞き従う決断を通してのみだと主張されているのです。神の声に聞き従うことと、たんに宗教習慣、宗教儀式を守ることとは別のこととされています。そして、この区別の中に、聖書の信仰、キリスト信仰の本質を理解する鍵があります。

私たちが、神の民、キリストの生ける体である教会の一員となるのは、ある宗教習慣、儀式からキリスト教という宗教習慣、儀式に移ったということを意味しません。キリスト者になるとは、何であるよりもまず、神のことばに聞き従う者とされるということです。

ここで、大切なことは、神のことばは、聞き従う神の民の中に、現実に豊かな働きをなし続けるという事実です。

神のことばの豊かな働きの中の二つに限って、考えてみたいと思います。

神のことばの働き

第一は、列王記下22章に実例をみる神のことばの働きです。ここには、主の宮の破れを縫うとしたヨシア王が、破れた主の宮で見つかった律法の書によって、みことばに聞き従うものとされたさまが生き生きと描かれています。

みことばは生きて働きます。主の宮の破れを縫うとするヨシア王の心の中に、みことばは悔改めとへりくだりを生ぜしめ、衣を裂くという具体的な自己否定を通して、自己満足から解放します。

次に、神のことばの第二の働きについてはイザヤ書40章からみたいと思います。ここには
「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ」(40:6〜8)と枯れるもの、しぼむものとしての空しさが、あからさまに描かれています。

虚無からの課題

すべての飾りが取り除かれたとき人は、枯れるもの、しぼむものとしての自己の姿を深く意識せざるをえません。この枯れるもの、しぼむものとしての空しさ、虚無から逃避する事なく、何物かに酔うことなくして、人は耐えうるのでしょうか。何物かに逃避する、何物かに酔う。宗教に逃避、宗教に酔うことを含めて。これが、枯れるもの、しぼむものとしての自己に目覚めてしまった人間の取りうるべき唯一の道なのでしょうか。しかし、イザヤは、
「たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」と続けます。とこしえに変ることのない神のことばによってのみ、枯れるもの、しぼれるものとしての自己を知られたものが、逃避する事なく、酔うこともなく、虚無から解放されると示されています。

自己満足を虚無から解放される事なくして、人は、本来の人として生きることができません。唯一の生ける神の栄光を顕し、永遠に神を喜ぶために、本来の人となるために、神のことばによる以外ないというのです。まことに「人はパンだけで生きるものではなく、その口から出る一つ一つの言で生きるもの」(マタイ4:4)です。