人生を導き教会を生かす、レビ記通読の手引き      レビ記5章 

人生を導き教会を生かす、レビ記通読の手引き 
レビ記5章

(1)中心点
レビ記4章と同様、罪祭・罪のためのいけにえについて。
しかし4章が罪を犯した人の立場の違いによる区別に焦点を絞っているのに対して、5章では、どのような罪を犯したか罪の種類による献げられるいけにえの違いが課題。
けれども罪の種類のすべてを網羅しているのではなく、代表的な実例だけを取り上げている。
 章全体を通じて中心点は明らかで、罪の赦しは、贖い(被う)によってのみ可能。

(2)5章1−13節
①1節、証言拒否、都合の悪いことや、利害関係に左右されて、だんまり狸的沈黙の罪。
「人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら──彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに──、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。」

②2−4節
 汚れたものに触れる場合、そのことに気付かずとも、汚れたものとなり、罪に定められる。
人間がそれを意識するかしないかで、罪の有無が決定されるのではない。
 しかし同時に、「後で咎を覚える場合」(2、3、4、参照5節)と繰り返し、人間の意識、罪意識の重要性を明示。
 
③5、6節
 「罪を告白しなさい」(5節)と人間側の意識的内面的関わりに焦点が当てられている。
しかし同時に、償いの必要を明示。「自分が犯した罪のために、償いとして」(5節)と、償いの必要が強調されている。
 さらに人間が贖いをなしているのではあるが、「祭司はその人のために、その人の罪の贖いをしなさい」(6節)と、神の側を代理する祭司による償いの必要を明らかにしている。
 つまり償い・贖いは、神ご自身による。

④7−13節
 人間が備えるいけにえは、子羊、ヤギ、山鳩、小麦粉のいずれでも可。
なぜならそれら自体に、人の罪を赦す力があるのでない。それらは、神ご自身が備えた供え物(「アドナイ・イルエ」(創世記22章14節)を指し示す役割を果たすだけである。

(3)5章14節−19節
罪について、本人の判断ではなく、人間の外に罪についての決定を与える基準が存在する。
15節に見るように、「あやまって」でも、17節に見るように、「それを知らなくても」も、
罪は罪。罪は歴然たる罪。実に鋭い罪意識。
 そして罪の赦しは、人間が何をなしたか、何を献げたかではなく、主なる神ご自身による贖い、神による神に向かっての、神ご自身に係わる贖い・犠牲。まさに徹底的恵みの故。

(4)レビ記5章を貫く罪の赦しの喜び
 神による神に向かっての、神ご自身に係わる贖いに基づく罪の赦しを
繰り返し宣言。
5章10節、「祭司はその人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される」。
5章13節「祭司はその人のために、その人が犯したこれらの一つの罪の贖いをしなさい。その人は赦される。」

5章16節「祭司は、罪過のためのいけにえの雄羊で、彼のために贖いをしなければならない。その人は赦される」。

5章18節「祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、彼のために贖いをする。彼は赦される」。
 そうです。レビ記5章を貫く罪の赦しの喜び。聖書の福音は、罪の赦しの良きおとずれ

イザヤ53章10節、
「しかし、彼を砕いて、痛めることは
  【主】のみこころであった。
  もし彼が、自分のいのちを
  罪過のためのいけにえとするなら

  彼は末長く、子孫を見ることができ、
  【主】のみこころは彼によって成し遂げられる」。

ヨハネ1章29節
「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。』」