人生を導き教会を生かす、レビ記通読の手引き    レビ記3章

レビ記3章

(1)1、2章と3章の主題の間に見る、流れ
中心となることば・単語の繰り返し、たとえば「主の前に」(7、12節)、「血」(8、13節)、「脂肪」(9、10、14、15節)など。
1章は全焼のいけにえ、2章は穀物のいけにえ、3章は和解のいけにえ。
そして3章も3つの部分。
①1〜5節、牛の場合。
②6〜11節、羊の場合。
③12〜17節、やぎの場合。

1、2章で見たのと同様、3章においても3つの部分が、よく似た文章の流れによって構成され、内容は平行している。
どの場合も、傷のないものを主なる神の御前に連れて来て、手をおいて、ほふり、祭壇のまわりに血を注ぐ。祭司も献げる人も、それぞれ分を守る。定められた部分を火によるささげものとする。

(2)選択(せんたく)の自由と必ず・必然性の両側面
①選択の自由の場合
動物の種類、牛でも羊でもやぎでも。雄でも雌でも良い。
主なる神が私たちに命令なさる場合、こうした私たちの選択認められる場合がある。
たとえば、主日礼拝の時間。それは10時半に限るものではない。場合によっては9時でも11時でも。しかし一度みなで定めた以上は、それを守る。

② 必ず・必然性の場合
傷のないもの。この一事を守らなければ、塩気を失うものとなる。何が自由で何が必ずなのか、識別力を養う必要がある。
また順序も大切。手を置く、ほふる、血を注ぐ。そして脂肪を献げ、焼く。これは定められたもので、その通りにしなければならない。
私たちの礼拝の生活においても、この両面、自由の面と必ず・必然性を正しく識別する課題を与えられていと。真の自由と厳しさを通して、礼拝の生活、献身の生活の整えを

(3)和解のいけにえこそ
神の聖と人間・己の汚れに基づく、和解の必要性。
注目すべきは16節後半、「脂肪は全部、主のものである」。脂肪以外は人間に委ねられる。主なる神、祭司、献げ者と三者が共に食卓に与かる交わりの回復。しかし16節後半、「脂肪は全部、主のものである」が明示するように、主なる神が中心であり、主なる神の食卓。  
主なる神との交わりの回復のため、主が備えられる主のもの犠牲が必要であり、血が流されねばならない。主イエスの十字架の血潮を指し示す。
  
「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5章18−21節)