人生を導き教会を生かす、レビ記通読の手引き             レビ記1章

人生を導き教会を生かす、レビ記通読の手引き
レビ記1章

(1)1章全体の大きな流れ
①1、2節は序、出エジプト記との結び。
②9〜17節、3種の全焼のいけにえ。
 イ.3〜9節、牛の場合。
 ロ.10〜13節、羊の場合。
 ハ.14〜17節、鳥の場合。
牛、羊、鳥のどの場合も、同じような決まり文句で始まり終わる、非常に整った形式の文章。
その中で、牛の場合は詳しくい記述、それに対する羊と鳥の場合は、より簡潔な記述。

(2)1、2節
 主なる神はモーセを呼び寄せ、語られる。出エジプト記でその完成を描く、神の栄光の満ち満ちた会見の天幕から(参照・出エジプト記3章4節、19章3節、24章16節)。
モーセは、主なる神のことばを聞いて民に告げる、仲保者の役割。語られて、告げられた内容は、2節に見るささげ物について。レビ記では、このささげ物が重要な位置を占めている。

(3)「会見の天幕」について確認
イスラエルの民がエジプトの奴隷から解き放たれ神の契約の民とされ、主なる神との交わりを与えられる場、それが会見の天幕。
この恵みの天幕から、主なる神は語られる。出エジプトの出来事の後、約束の地を目指す旅、その恵みの御業を記すモーセ五書。その中で、レビ記はささげ物の位置を示している。レビ記、より直接的には、そのささげ物の記述に先行する、救いの恵みの大ドラマの中で、ささげ物は正しく理解できる。
この救いの御業を忘れて、律法をだけを孤立してみるなら、本来の律法の意味を誤解する危険がある。出エジプトの出来事を中心とする、神の救いの歴史の大きな文脈を見逃してはならない。
出エジプトの後、約束の地への入国前に、レビ記は位置する。

(4)「あなたがたが主にささげ物をするときには」(2節)
ここに見る、「あなたがた」は、イスラエルの民全体ではなく、だれでもその人(アダム、創世記1章26,27節)、4節では、「その人」と言われている、各自・個人を指す。
「アダム」、神に創造された、本来の人間。男女の差別なく(参照・民数記5章5〜7節)。イスラエルだけでなく、主なる神に主なる神を礼拝するように創造された、人間・私、よろずの民を指す、広がりを内包する豊かな表現。
祭司と共にささげ物をする民の一人一人。参照エペソ4章11〜16節。

(5)牛、羊、鳥、いずれの場合でも、
①手を置く、
②ほふる、
③最後に焼く。
牛に力があるのではない。牛でなくとも、羊でも鳥でもよい。勿論羊に、鳥に力があるのでもない。大切なのは、ささげる人の態度。悔いくずれた魂の、こころからのささげ物。
 「手を置く」、ささげられる犠牲と自分が一体であることを示す意図。犠牲の故に、贖いがなされ、和解が成り立つ。

(6)ささげ物
人間からは完全な物をささげることができない。
主なる神が備えてくださる、完全な犠牲・主イエス・キリストご自身。ヘブル人への手紙を味わいの備え。