『本来の人間・私の道を最後まで』  Ⅰコリント6章19,20節    

『本来の人間・私の道を最後まで』
Ⅰコリント6章19,20節

2011年7月24日(日)
足立キリスト教会伝道礼拝

[Ⅰ]序
(1)おはようございます。今朝、足立キリスト教会の主日礼拝に1年ぶりに出席できる恵み、心より感謝します。
 この一年間の中でも、三郎牧師夫妻を通して、足立キリスト教会の祈りの課題、また注がれている祝福を伺って来ました。ですから今朝のお二人の洗礼式も喜んでおりました。
 私たち夫婦は、25年沖縄滞在後、5月24日に千葉の市川に移住、聖望キリスト教会宣教牧師として新しい歩みを始めております。
今後、主にある皆様との交わりをさらに深められて行くことを確信し、御名を崇めます。

(2)今朝は、ヘブル12章2節に意を注ぎ、『本来の人間・私の道を最後まで』の宣教題のもと聖霊ご自身の導きを求めつつ思い巡らします。
まずもう一度、ヘブル12章2節を当教会で用いておられる新改訳に加え、とても興味深く私は名訳と理解します前田訳でお読みいたします。

新改訳
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
エスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

前田護郎訳
「信仰の手ほどきまた仕上げをなさるイエスを仰ぎ見て走りましょう。彼は、自分の前に置かれたよろこびの代わりに、恥をいとわず十字架を忍び、神のみ座の右におすわりでした。」

[Ⅱ]本来の人間・私のからだのはじめ、基盤・土台・原点
(1)創世記1章1節
「初めに、神が天と地を創造した。」

(2)詩篇139篇13−15節
「それはあなたが私の内臓を造り、
 母の胎のうちで私を組み立てられたからです。
私は感謝します。
あなたは私に、奇しいことをなさって
恐ろしいほどです。
私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。」
★何を「初めに」とするか。してはならないものを「初めに」にする可能性を用心したり、すでにそうしている実体・実情を見抜く素朴な澄んだ眼。正しい意味の批判精神の確立。

[Ⅲ]「終わりよければ、すべてよし」、本来の人間・私のからだの道を最後まで
(1)Ⅰコリント15章38節、キリストの復活の事実の恵みの深さ・広さを展開するⅠコリント15章において。
「しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。」
自然界における一般的で当たり前と思われることごと(たとえば種まき)に神の驚くべき恵みの事実を聖書をめがねとして見抜く、『裸の王様』的洞察力。

(2)以上のことを→人間・私自身に当てはめて行く。
15章51、52節
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
しかし神は、私たちを変える。からだのよみがえり。
①リハビリ賛歌
②死の事実とリハビリの限界
③キリストの復活に基づくからだのよみがえりの約束と希望。

[Ⅳ] 集中と展開 
(1)集中、本来の人間・私は、喜ばれている。『存在の喜び』。

(2)展開、ボタンは、下から。ボタン・つまり最終的な確かな希望に立つ、忍耐の日々。
ロ−マ8章24、25節・
「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
もしまだ見ていないものを望んでいのならる、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」