沖縄でダニエル書を読む     その8

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

 「目を上げて天を見」

                 ダニエル書4章28〜37節

[1]序  
 ダニエル書4章28〜37節を、前半4章28節−33節「ネブカデネザル王の身に起こった」と後半34節−37節「目を上げて天を見」に分け、味わいます。

[2]「ネブカデネザル王の身に起こった」(28節から33節)
(1)28節は
28節、「このことがみな、ネブカデネザル王の身に起こった」は、27節までの部分と28節を結ぶ橋渡しの役割をしている事実に注意したい。
「このこと」とは、27節までの箇所でダニエルの解き明かしを通して明らかにされている内容。また28節以下では、どのようにして「ネブカデネザル王の身に起こった」か、より詳しく説明しています。

(2)ネブカデネザルの高ぶり(29節、30節)
30節に見るネブカデネザルのことば。
「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするため、たま、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか」こそ、ネブカデネザルの心の根にある問題が何であるかをはっきり示しています。
一言で言えば、自分中心です。神の恵みを無視し忘れる、高慢。
創造者なる神は、すべての恵みを注いでおられるのです。
「天を創造した方、すなわち神、
地を形造り、これを仕上げた方、
すなわちこれを堅く立てられた方、
これを形のないものに創造せず、
人の住みかに、これを形造られた」(イザヤ45章18節)

 神の驚く恵みを受けているにもかかわらず、思いわずらい、神様の恵みを認めようとしない。これは私たちの問題の一つです。
しかしもう一つの落とし穴は、神様の恵みの賜物を、このネブカデネザルのように私・自分の力によるものとし、これを私有化してしまう。この深刻な高ぶりの罪は、最も注意すべき罪です。ネブカデネザルの問題であるばかりでなく、すべての人が注意すべきものです。
イスラエルの民も荒野での思いわずらいばかりでなく、約束の地に入り祝福を受ける時、高ぶらないように、モーセは鋭く警告を与えています。申命記8章11節から20節を意を注いで読む必要があります。

(3)「天からの声」(31節、32節)
 天からの声のメッセージは、一貫しています。
「いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになる」(32節)。神の御統治です。

(4)ネブカデネザルの上に成就
高ぶらりの状態。それは、野獣に等しい姿であると鋭い指摘。
高ぶり、それは人間らしい人間の姿から離れてしまい、私らしい私の道から迷い出してしまうことです。このようなネブカデネザルの心の中の状態が外に現れてくるのです。


[3]「目を上げて天を見」(34節から37節)
(1)理性が戻る。

①34節前半。さばきと共にあわれみの約束。「ついに」、「七つの時」(16,23,25,32節)。
主なる神の統治を認めること、最も理性的な、人間・私としての道。

②36節、「私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった」、神の統治の下にある私。

(2)頌栄
①34後半,35節、「私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。
  その主権は永遠の主権。
  その国は代々限りなく続く。
地に住むものはみな、無きものとみなされる。
  彼は、天の軍勢も、地に住むものも、
  みこころのままにあしらう。
  御手を差し押さえて、
  『あなたは何をされるのか』と言う者もいない。」

②37節、「今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。」

[4]結び今朝の箇所を通し、人間・私の道をしっかり心に受け止め、今週の歩みに備え、私の一生を見定めたい。
(1)神の御統治を認める。主日礼拝の恵み、礼拝の生活の基礎。
「永遠に生きる方を賛美し、ほめたえる」(34節)。

(2)被造物の限界、人間の分をわきまえる。
「地に住むものはみな、無きものとみなされる」(35節)。
真の知恵の心。思いわずらいと高ぶりからの解き放ち。

(3)神の真実と正義(37節)
Ⅰコリント1章9節、10章13節

(4)高ぶり歩む者からへりくだる者へ。Ⅰペテロ5章5節、6節。