沖縄でダニエル書を読む     その6

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

           「火の燃える炉」

                 ダニエル書3章19〜30節

[1]序
 ダニエル書3章19節から30節の箇所を、前半19節から25節を「火の燃える炉の中に」、後半26節から30節を「火の燃える炉から」と分けて、味わいます。

 この箇所全体を通じ印象深いことのひとつは、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが全く沈黙している事実です。
19節から30節まで、彼らの発言は何も記録されていません。3章17節と18節の際立つ信仰の告白。人間のことばとして最も美しく見事なものと言っても過言ではない私たちは、このことばを聞いて深く感動します。
しかし同時に、信じ告白することに黙々と従い行く姿。彼らの沈黙にも私たちは本当に心を引き付けられます。


[2]火の燃える炉の中に(19節から25節)
(1)火の燃える炉の中に(19節から23節)
① もう一度、あの3章17節を読みす。

「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。」。
「火の燃える炉から」とあります。彼らは、火の燃える炉に投げ入れられる前に、安全で楽な道に導かれるとは、初めから考えていないのです。

②試練に会うのです。全能の父なる神を信じる者でも、試練に直面するのです。これは聖書全体が明らかにしている事実です。たとえばペテロの手紙第一4章12節から19節。
「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち、神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(4章12節から14節)。
ペテロの手紙第一を通じて、ペテロは、手紙受け取る人々が直面する苦しみについて、その深刻さが増し加わる有り様を、一つ一つ段階を示しています。
(イ)「善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」(3章13節)

(ロ)「たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」(3章14節)。 

(ハ)「燃えさかる火の試練」(4章12節)
  これらのどの段階においても、ペテロは積極的に「善を行なう」ことを一貫して勧めています。
このⅠペテロ4章12節から19節の箇所でも、「ですから、神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」(4章19節)と、力を込めて励ましています。
なぜこの世に苦しみがあるのか、なぜ燃えさかる火の試練がキリストを信じて従う人々に襲いかかってくるのか、ペテロは一切説明を試みていません。苦しみに直面している現実から出発し、その現実の中でキリスト者・教会はいかに生きるべきかをペテロは明らかにします。「主イエス・キリストにおいて現実とされている恵みにしっかりと立ち、いかなることが押し寄せて来ても積極的に善を行うように。それは万物の創造者であり、万物を完成へと導いてくださるお方は、真実であるからです」。ペテロはこの一事を訴えています。
ダニエル書3章17節と18節の確信と服従の関係を通して見たと全く同じです。

(2)火の燃える炉の中でも(24,25節)
①聖書のある箇所については、その解釈をめぐり意見が分かれる場合や理解困難な場合もあります。
25節の「第四の者」とは誰か。「神々の子のようだ」とあり、28節には、「神は御使を送って」とありますが、幾つかの意見が出されています。理解困難が箇所と言って良い。

②しかしすべてが困難なわけではありません。
中心点は明らかです。火の燃える炉の中でも、主なる神の守りは確かなのです。神は預言者を通してイスラエルの民に捕囚の警告を告げるとと共に、捕囚の民に対する特別な約束も与えておられました。
「恐れるな。
わたしがあなたとともにいるからだ。
わたしは東から、あなたの子孫を来させ、
西から、あなたを集める。」(イザヤ43章5節)。
イスラエルの民はたとえ捕囚の身となろうとも、主なる神のみを恐れ礼拝して生きるなら、ネブカデネザル王も誰をも恐れる必要がないのです。
火の燃える炉に投げ込まれることでも何でも恐れる必要はない。この中心的なメッセージは聖書全体を通して鳴り響いています。たとえばマタイの福音書28章16節以下の箇所では、復活の主イエスが、「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(19,20節)と、世界宣教の命令を与えられと共に、実に確かな約束を与えておられます。
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(20節)

[3]火の燃える炉から(26節から30節)
 この箇所では、ネブカデネザル王の姿に注意したい。

(1)驚きと信仰
2章で見ましたように、ネブカデネザル王はダニエルによる夢の説き明かしに圧倒された時、「ひれ伏してダニエルに礼をし」(2章46節)、ダニエルの神は、「神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方」(2章47節)と認めて、ダニエルと三人の友人たちを高い位につけたのでした(2章48,49節)。
しかしネブカデネザル王は、心の奥深くにおいては、何も変わっていなかった。確かにダニエルの夢の説き明かしに接して印象を受けたのです。しかしそれは表面的であり、一時的。3章1節以下の記事がそのことを明らかに示しています。

 この3章においても、ダニエルの3人の友人たちの火の燃える炉の中での思いがけない様子を目撃した時、ネブカデネザルは「驚き」(24節)、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神が彼らを救い出されたことを認めるのです。つまり、神の奇跡を認めるのです。
しかしネブカデネザル王が悔い改め回心して、個人的な信仰を持ったとはこの箇所でも断定できないのです。私たちは、平凡な日々の中で人々に伝道しようとして、何か奇跡的なことが起これば、人々は信仰に導かれるのではないかと思いがちです。ですが奇跡を認めるのと神のことばを信じ主イエス・キリストを個人的に信じることは別なことです。主イエスが語られたラザロと金持ちの記事(ルカの福音書16章19節から31節)の中で、「もしモーセ預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」(16章31節)とある通りです。
どんな奇跡に驚き、奇跡を認めたとしても、神のことばを信じないなら、それは信仰とは言えない。聖霊ご自身の助けを受けて神のみことばを信じ、神を個人的に信じ礼拝できる神礼拝は、どんな奇跡よりも奇跡。

(2)「私の主、私の神」
ネブカデネザル王は、「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神」と、ダニエルの友人たちの信仰を認め、さらに彼らが「自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まない」(28節)と、3人の神への忠実を確言しています。
しかしネブカデネザル王自身が個人的に神を信じ、「ネブカデネザルの神」とは記されていない。私たちもネブカデネザルと同じ危険があります。ネブカデネザルのように、心を変えないのではなく、疑問や疑いなどを含めて個人的に求めて、「私の主、私の神」とトマスと共に、主イエス・キリストに個人的な信仰の告白をしたい。

[4]結び
 二つの点に絞り教えられた内容をまとめます。
(1)一つは、摂理の信仰。
私たちの人生に、なかなか理解できないことが起るのは確かです。しかし私たちは、ダニエルの三人の友人と共に確信できるのです。
ヨハネ福音書3章16節、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」を、私の生涯において実現してくださったお方は、私の一週間の営みにおいても、生涯の歩みを通しても、最善以外の何事をも経験させないと、パウロが高らかに宣言している事実です。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ロマ8章28節)。

 この恵みの事実を摂理の信仰と世々の教会は呼んで来たのです。宗教改革時代1563年に出版されたハイデルベルグ信仰問答では、その問い27と答えでは、神の摂理とは何かを取り上げて、このように答えています。
「それは、神の全能なる、今働く力であります。
その力によって、神は、天と地と、そのすべての被造物をも、み手をもってするごとくに、保ちまた支配して下さり、木の葉も草も、雨もひでりも、実り豊かな年も実らぬ年も、食べることも、飲むことも、健康も病気も、富みも貧しさも、すべてのものが、偶然からではなく、父としてのみ手によって、われわれに、来るのであります。」

 そして神の創造と摂理を知り信じて生涯の営みをなし歩みを続けると、どのような実際的な実をみのらすかについても、美しく告白しています。
「われわれは、あらゆる不遇の中にも、忍耐深く、幸福の中には、感謝し、未来のことについては、われらの依り頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物も、われわれを、神の愛から、離れさせることはできないようになるのであります。
それは、すべての被造物は、全くみ手の中にあるのですから、みこころによらないでは、ゆるぐことも動くこともできないからであります。」(問い28、答)

 この驚くべき恵みを現代に生ききったあかしとして、一冊の本をご紹介します。
澤政彦・金纓(よん)、『弱き時にこそー癌を告知された夫婦の日記』(1989年、日本基督教団出版局)

(2)キリストの花嫁になるべき者として
キリスト者・教会の生活、それはキリストの花嫁になるべき者としての歩みである事実です。
たとえば黙示録19章7節と8節を注意。ここには、主なる神の恵みの主権を、花婿キリストと花嫁教会の姿で表現し、少なくとも三つの特徴を示しています。
①花婿キリストが花嫁教会のために何をなしたかが中心。

 エペソ人への手紙5章22節以下で学んだことです。花嫁キリストの愛が、十字架の贖いを通し、教会に花嫁としての立場を与えているのです。しかも選ばれた花嫁は自分の力で一生懸命整えて行くのではない。
しみもしわもない者として、キリストご自身が整え続けてくださるのです。先行する選びの愛。整えていく継続的な恵み。婚姻(こんいん)の日まで、花婿キリストのリードで進められて行くのです。

②備えの期間
黙示録19章8節が印象的です。
キリスト者・教会の生活は、婚姻の日を目指して整えて行く婚約者のそれです。喜びに満たされたものです。一途なものです。この備えの期間を、普通聖化と呼びます。キリストの救いにあずかるキリスト者・教会は、漠然として生きているのでない。小羊の婚姻の時を目指して、聖化の道を進み続けるのです。
「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(黙示録19章8節)。

③頂点
各時代を貫き、全世界に広がる聖なる、公同の教会全体が、キリストの再臨に際し、変えられるのです。完全なものとされるのです。この頂点を、徐々に整えられる聖化の道に対し、栄化と呼びます。この栄化の約束を、黙示録19章7節を通して、心に刻みたいのです。これこそダニエルの友人たちが待ち望んだ喜びです。
「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」