沖縄でダニエル書を読む     その5

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

  「しかし、もしそうでなくとも」

                 ダニエル書3章1〜18節

[1]序
 ダニエル書3章1−18節を、前半1節から7節を「金の像」と後半8節から18節「確信と従順」に分け、傾聴します。

[2]金の像(1節から7節)
(1)中心は
この箇所の中心は、一言で言えば、偶像礼拝をしない、この一点です。
この中心メッセージは聖書全体を貫いています。この箇所では、ダニエルと友人たちの姿を通して誰にも分かるように描かれています。
同じメッセージを詩篇の記者は、
「主こそ王。
全地よ、喜び躍れ。
 多くの島々よ、喜び祝え。」(詩篇97篇1節、新共同訳)と呼び掛けています。
またローマ人への手紙の中で、使徒パウロは、「彼らは、自分を知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。・・・造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」(ロ−マ1章22,23,25節)と、この中心点を明らかにしています。

(2)おおげさ
1節以下の箇所で目立つ一つは、ネブカデネザルの言動がおおげさな事実です。自分の政治的支配を絶対化し、宗教的要素を利用する彼のなす事々は、おおげさです。
①何よりも彼が造った金の像。その高さ60キュピトとは、約27メートルに相当すると言われます。
また2章に見る像が金、銀、青銅、粘土であったのに対して、この像が全身金ぴか(めっきであったにしても)であるのも、分を忘れたネブカデネザルの止どまるところを知らない自己主張を見ます。おおげさな舞台装置で宗教を利用するのです。

②5節の「あなたがたが角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときは、ひれ伏して、ネブカデネザル王が立てた金の像を拝め」とあり、何事につけ大掛かりを好み芸術さえ自分のため利用する姿。

③そして、15節、「もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」に見る高慢な言葉。

[3]確信と従順(8節から18節)
17節と18節に特に注意。
(1)「もし、そうなれば」(17節)
すべてをおおげさにし、自己の真の姿を隠しつつ、高慢な言葉をもって迫るネブカデネザルに、あの三人は率直に答え、確信を明らかにします。
この素直な信仰こそ、いつでもどこでも私たちの従うべき指針です。

(2)「しかし、そうでなくとも」(18節)
17節、「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します」が、鍵です。
しかし、さらに18節、しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」
ここにダニエル書のメッセージの深さを見ます。ネブカデネザルに対する抵抗が、実は主なる神に対する徹底的な従順によってなされている事実を教えられます。
17節と18節の関係は、私たちが告白する使徒信条の「全能の」と「父なる」との結びに見ます。
またヘブル11章33節から35節前半と35節後半以下の結びによく現されています。前半では、「剣の刃をのがれ」(34節)と奇跡的救い、それに対して後半では、「剣で切り殺され」と虐殺の事実が冷静に描かれています。
その両方において、信仰の応答がなされているのです。まさに「しかし、もしそうでなくとも」の世界です。

[4]結び
 私たちの生かされている社会にあって、ダニエル書を通して教えられるメッセージにどのように応答して行くべきでしょうか。私たちの、今、ここでの課題です。