四福音書味読の手引き

味読とは
エレミヤ15章16節
「私はあなたのみことばを見つけ出し、
それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって
楽しみとなり、心の喜びとなりました。
万軍の神、【主】よ。
私にはあなたの名がつけられているからです。」

[1]序パウロは、テモテに「私の福音」を明示しています。
そうです。Ⅱテモテ2章8節を注意したいのです。
「私の福音に言うとおり、
ダビデの子孫として生まれ、
死者の中からよみがえったイエス・キリストを、
いつも思っていなさい。」
では、どのようにして、「いつも思う」ことが出来るのでしょうか。
私たちに与えられている恵みの手段の大切な一つは、四福音書を、聖霊ご自身の助けを求めつつ読み続けて行く道、日々にそして生涯にわたって。

[2] マタイとマルコ
(1)マタイの特徴
まずマタイの最初と最後に注目します。
文章の最初または最後に、書き手が一番伝えたいことばや文章を記す場合が少なくありません。
①マタイ1章1節
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図。」
アブラハムダビデの間は約千年、ダビデイエス・キリストの間も約千年、そしてイエス・キリストと私たちの間は約二千年の隔たり。
ですからマタイの福音書を、今、私たちが読む時、少なくとも四千年の広がりを明確に意識し大切にする必要があります。このマタイの福音書の特徴に従い味読するのです。

②マタイ28章20節
最後、勿論大切。ある意味で、この結びの文章を書きたいために、1章から28章までマタイは書き重ねているのです。
私たちも、この生きた文章を聖霊ご自身の助けにより正しく、深く、豊かに読み聴従し、この目標を意識しながらマタイの福音書を読み続けるのです。
「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも(日々に)、あなたがたとともにいます。」
「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのこと」、それはマタイの福音書に書かれている、さらに誰でもが読めるように新約聖書・聖書全体に記されているのです。
ですから、私たちの属する教会はそれぞれ御言葉を教える教会であり、学ぶ教会なのです。
そしてこの驚くべき約束を「見よ」。

(2)マルコを一つの切り口から
マルコは、主イエスの姿を、同じことば・「先頭を行く」を二箇所で用い印象的に
描いています
①マルコ10章32節
「さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。
エスは先頭に立って歩いて行かれた。」
マルコの福音書のほぼ真ん中において、十字架について予告するだけでなく、先頭を進む主イエスの姿をマルコは鮮やかに描いています。福音書を読む私たちの心と生活・生涯に聖霊ご自身の御業により刻印するためにです。
マルコを読むとは、そう言うことなのです。

②マルコ16章7節
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。」
主イエスの十字架の死と墓の現実に途方にくれている弟子たちに、驚くべき約束また励ましの宣言が与えられます。
マルコの福音書の味読を通して、十字架に向かい先頭に立ち、私たちより先に私たちのガリラヤへ行かれる主イエスの姿を聖霊ご自身に信頼しながら心と生活・生涯に刻み、私たちのガリラヤに留まり、そこで生かされるのです。

[Ⅲ]ルカとヨハネ
(1)ルカの人柄

①ルカ1章4節
「それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」
ルカの福音書、そして聖書全体は、神の恵みの事実についての証言です。
事実をルカは書き、事実として私たちは読み受けとるのです。
使徒1章1節〜2節
「テオピロよ。私は前の書􃅡 􃅡 􃅡 で、イエスが行ない始め、教え始められたすべてのことについて書き、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」
「前の書」とは、ルカの福音書を指すことは明らかです。「イエスが行ない始め、教え始められたすべてのこと」を一枚一枚美しい画面の連続のように描いています。
続編・使徒の働きでは、使徒の働き1章8節、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」との、主イエスの約束が成就していく経緯・事実を証言しています。
そうです。エルサレムユダヤとサマリヤの全土だけではないのです。
ローマの囚人、いやキリストの囚人(ピレモン9節)パウロを中心に、「こうして、私たちはローマに到着した」(使徒28・14)と報じられているように、事実地の果て・ローマにまで、キリストの約束は成就。あくまでも事実の証言です
ルカの福音書使徒の働きは、決して切り離してはならない。このかなり長編の両方を、テオピロのために(ルカ1・3、使徒1・1)、ルカは書ききったのです。この一人の人のためなら、どんなことでもいとわず労する、ルカはそういう人柄なのです。
こんな人柄のルカが精魂込めて書いたものを、一度、この私に対し個人的に書き送られた長い手紙として一気読みをされたし!

(2)ヨハネは個々人を浮き彫りに
ヨハネ福音書全体をとして、父なる神との関係で、主イエスご自身の姿をヨハネ
浮き彫りにしています。しかしそれだけではありません。たとえばトマスのように、登
場する人物個々人を印象深く浮き彫りにしています
ヨハネ1章14節
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
驚くべき、本当に驚くべき事実。「恵みの上にさらに恵み」(ヨハネ1・16)の事実。ヨハネは、この事実を描いているのです(ヨハネ21・31)。

ヨハネ20章28〜29節
「トマスは答えてイエスに言った。『私の主。私の神。』イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」

ペテロの場合(「私もひとりの人間です」、使徒10・25〜26)やパウロの場合(「私たちも皆さんと
同じ人間です」、使徒14・15)と。
主イエスの応答は鮮やかに区別されます。
自分自身を神と自覚し、他の人々に私は神だと宣言しているお方をヨハネは浮き彫りにしています。
どのようにして「見ずに信じる」ことが出来るのか。ヨハネを含む四福音書、そして聖書全体を聖霊の導きと助けを受けて味読し続けることによって。この「幸い」の道を、私たちの生活・生涯をかけて一日一日歩み進むのです。

[Ⅳ]集中と展開 ヘブル人への手紙12章2節
福音書を読み続けるのは、この一事のためです。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」

福音書を読み続けることに集中する時、キリストともに死に、キリストともに生きる、生活と生涯(ローマ6・3〜8)が必ず展開して行くのです。そしてその展開は教会の枠を越え社会の現実へと溢れ染み入るのです。