『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ー40

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『十字架から降りよ』
マルコ15:21−32

[1]序
(1)今朝は、2月第四主日の礼拝、主日礼拝後には、教会学校教師会を予定、また午後3時からは、オリブ園訪問です。
来週の2月第五主日は、沖縄地区姉妹教会の講壇交換、首里福音教会では、宇堅福音教会の石川先生が宣教を担当、牧師は、八重山キリスト福音教会で宣教を担当します。

(2)今朝の聖書箇所は、いよいよ主イエスの十字架の場面です。

[2]クレネ人シモン 、21節
 この記事は、マルコだけでなく、マタイとルカの福音書にも記されております。初代教会の人々の心に深く刻まれた出来事であったと考えられます。 十字架の主イエスをめぐる人々の言葉や態度と鋭い対比で、クルネ人シモンの姿をマルコは描いています。

◆クレネは、北アフリカのリビヤの海岸都市で、古代ギリシャ人が建設、かなり多数のユダヤ人が移住していてと言われます。
 当時、十字架の刑を受けた囚人は、自分が釘つけられた十字架の横棒を、刑の執行される場所(ここではゴルゴタ)まで担い運ぶのが決まりで。
しかし主イエスは、前の夜からの仕打ちのため、重い横棒を運べる状態ではなかったので、偶然そこを通りかかったクレネ人シモンが、ローマの兵士に強制されて、主イエスの十字架を背負わされたと考えられます。
ロ−マ16章13節に、「主にあって選ばれた人ルポスによろしく、また彼と私との母によろしく」とあり、シモンの家族が、この出来事を契機として、その後主イエスに従う者とされたのでないかと推察されます。
このクレネ人シモンは、まさに主イエスに選ばれ(ヨハネ15章16節)、主イエスに従う者とされたと教えられます。
参照マルコ8章34節、「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。

[3]十字架から降りよ 、22-32節
(1)主イエスを十字架に
①「彼らはイエスゴルゴダの場所(訳すと、『どくろ』の場所)へ連れて行った」(22節)。
総督ピラトの官邸からゴルゴタまでの道行きは、「ドロローサ」(悲しみの道)と呼ばれています。
ルカの福音書では、道行きについて詳しく描く(ルカ23章27-31節)。マルコは、マタイと同じように(マタイ27章35節)、ゴルゴタの処刑の場面に集中しています。

②ローマの兵士たち
ローマの兵士たちは、15章16節以下に見たように、総督ピラトの官邸において、主イエスに不法を働き、あざけりの限りを尽くしました。しかしそれだけに止まらず、ゴルゴダにおいても、彼らの主イエスに対する行為はその度を増すばかりです。
「だれが何を取るかくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた」(24節)とマルコは記します。参照詩篇22章18節、「彼らは私の着物を互いに分け合い、
 私の一つの着物を、くじ引きにします」。
また「イエスの罪状書きには、『ユダヤ人の王』と書い」(26節)たのです。この罪状書は、主イエスに対してと同時に、ユダヤ人に対するあざけり。

③「また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた」(28節)とあります。三人の反逆者を一緒に処刑するわけです。このふたりの強盗については、32節でさらにマルコは書き記しています。

(2)十字架から降りよ
13、14節で、主イエスに対する、「十字架につけろ。十字架につけろ」との叫びを聞きました。しかし今ゴルゴダの主イエスの十字架の場面においては、「十字架から降りよ。十字架から降りよ」と叫ぶ人々の姿をマルコは描いています。
三つの異なるタイプの人々が、声を合わせて、「十字架から降りよ」と叫ぶのです。
①道を行く人々
まず最初にマルコが描くのは、十字架の場面でたまたま道行く人々のあなどりのことば。
「道を行く人々は、頭をふりながらイエスをののしった。『おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ』」(30節)。
「頭をふりながら」とは、あざけりの表現です。参考詩篇22篇7節。この「十字架から降り」よとの言葉は、荒野におけるサタンの誘惑(1章13節、ルカ4章3、7節、「あなたが神の子なら」)に通じるものです。

②祭司長たちと律法学者たち
この場面でも、祭司長や律法学者たちの役割は大きなものです。彼らは、心を合わせて、主イエスをあざけったのです。あざけりのことばは、やはり、「十字架から降りよ」を中心とするものです。
「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架からおりてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから」(31節後半、32節前半)。

③ふたりの強盗
27節に描かれているふたりの強盗も、道行く人々、祭司長や律法学者たちと同じく主イエスをののしったのです。主イエスに対するあざけりは頂点に達します。
「イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった」(32節)。
このふたりの強盗については、ルカがさらに詳しく興味深い報告を与えてくれます。ルカの福音書23章39−43節を注意したいのです。
マルコの描写とルカのそれを比較すると、ふたりの強盗が、はじめは一緒に主イエスをののしっしていた事実を見ます。
ふたりの中のひとりは、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」(ルカ23章39節)と主イエスに悪口をあびせ続けます。
しかしもう一人の強盗は、「自分のしたことの報いを受けている」自分たちと、「悪いことは何もしなかった」主イエスの根本的な違いを認めたのです。その中から、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(ルカ23章42節)と願い求めるのです。
そして、主イエスの明言、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23章43節)と、主イエスの約束。

◆この場面で、主イエスご自身についての直接的な描写は、酸いぶどう酒をお飲みにならなかったこと(26節)だけです。
「酸いぶどう酒」の意味について、詩篇69篇21節が指し示してくれます。
「彼らは私の食物の代わりに、苦みを与え、
私がかわいたとき酢を飲ませました」。
ローマの兵士から見れば、すでに極度の苦痛とかわきにある主イエスに対して、なおも苦しみを増すための悪意ある行為。
しかし主イエスは、それを拒むことにより、一種の麻酔作用により精神が朦朧(もうろう)となることを避け、明確に覚めた意識をもって十字架の苦しみを身に受けられています。このように、主イエスの拒絶は、主イエスが十字架の苦しみを積極的に受け取っている事実を示しています。
ピリピ2章8節が明示する通りです。
「 キリストは人間と同じようなかたちになり、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」 。

[4]結び
(1)主イエスの十字架をめぐり、「十字架につけろ」との叫びと、「十字架から降りよ」とのあざけりの言葉が飛び交います。主イエスを十字架につけよとの叫びと十字架から降りよとのあなどりは、表面的には相反するように見えます。その実両方とも、主イエスの十字架に敵対するものです。
主イエスは、あのゲッセマネの園で祈られたように、父なる神のみこころである十字架の道を進み、贖いの業をなしてくださるのです。