『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ー38

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『主のおことばを思い出して』
マルコ14:53−72

[1]序

(1)今朝は2月第二主日、礼拝後には、糸数姉妹の指導による会衆聖歌隊の練習があり、音楽委員会も持たれます。また昼食後には、2月の役員会を開きます。
今週の歩みの一つとして、11日(水)午前10時から、沖縄地区第3回信教の自由祈祷会が予定されています。

(2)こうした歩みの中で、今朝は、マルコ14章53節から14章最後の節・72節までの箇所を味わいます。
この箇所は、前半53節から65節、議会の前での主イエスの姿を描く場面と後半66節から72節、ペテロが主イエスを知らないと否認する場面に分けることができます。私たちが特に注意すべき点は、この前半と後半の場面の密接な関係です。二つの場面の結びつきを明示する、54節がカギの聖句です。
53節では、主イエスを裁こうとする議会が、どのような人々によりにより構成されているかを明らかにしています。そして55節に見るように、裁判が進行して行くわけです。ところが54節では、「ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭まではいって行った」と、ペテロの姿を描いています。この54節は、議会の前の主イエスの姿を描く直接の目的から見れば、かっこに入れてよいものです。
またペテロ自身の姿を描くのは、54節に続き66節においてです。ですからペテロの記事を中心に見れば、55節から65節を逆にかっこに入れると、話の進展がよく見えてきます。
こうした流れの中で、54節の役割を確認したいのです。この54節は、前半の議会の前の主イエスの姿を描く場面と、後半のペテロが主イエスを知らないと否認する場面が同時に進行していることを伝えてくれます。

[2]議会の前の主イエス 、53節−65節
66節以下で、ペテロが主イエスを知らないと三回否認する様を描いているように、この議会の前の主イエスを描く場面も、同じく三つの部分に分けることができます。
(1)55、56節
裁判の第一段階を、55、56節に見ます。
 55節には、「イエスを死刑にするために」とあり、主イエスに対する裁判の性格を、よく示しています。最初から目標となる判決を決めていたのです。死刑の判決をもっともらしく見せるために、証拠と言われるもの、また証言を集めるわけです。
当然ですが、「イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった」のです。
また証言についても、確かに「イエスに対する偽証をした者は多かった」のですが、彼らの間で、「一致しなかった」のです。これが第一段階です。

(2)57−59節
証拠をあげることができず、偽証も一致しない状態から、次の段階へ裁判は進展します。
主イエスに対する偽証が、神殿とのかかわりの一点に絞られます。
「わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られ別の神殿を造ってみせる」と、主イエスが語ったと偽証します。
マルコ13章において、私たちは、「この大きな建物を見ているのですか。石がくずれずに、積まれたまま残ることは決してありません」(2節)と、主イエスが語られた事実を見ました。これは、紀元70年の際、ローマ軍による破壊を主イエスが預言したものと私たちは理解したのです。
神殿破壊の事実を指し示した主イエスに対して、神殿破壊を自らなすと言ったと偽証するわけです。神殿破壊に主イエスが言及なさったとは事実です。しかし神殿破壊を自らなすと主張したというのは、明らかに偽証です。ここでも、全く根拠のないことではなく、偽証の内容は一部は事実であり、一部は偽りであるを見ます。この偽証もそれなりの影響を与えた理由を、ここに見ます。

(3)60−65節
60-65節の箇所には、議会による裁判の第三部、その頂点を見ます。
①「そこで大祭司が立ち上がり、真中に進み出てイエスに尋ねていった」(60節)、いわば主席裁判官・裁判長である大祭司が主イエスの方に進み出て尋ねると、緊迫した状態をマルコは描いています。神殿破壊についての偽証に対して、主イエスの沈黙。この沈黙に耐えられないかのように、大祭司は、「何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが」と迫るのです。しかし主イエスは、「黙ったままで、何もお答えにならなかった」(60節)のです。

②主イエスの沈黙を前に、大祭司は、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか」(61節)と、遠回しのではなく、一番中心となる問を直接尋ね、主イエスの答えを求めます。
「わたしは、それです」、主イエスの答えは、実に率直で、力強いものです。
「わたしは、それです」、「わたしは、・・・です」とは、主イエスがご自身についてどのように考え、どのように宣言なさったか自己理解を示す、大切な表現。特にヨハネ福音書において、この表現を用いた主イエスの宣言を私たちは見い出します。たとえば、
ヨハネ10章14節、「わたしは良い牧者です」
11章25節、「わたしはよみがえりです」
14章6節、「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」
議会の前で、主イエスは、「わたしは、それです」に続き、「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あながたがは見るはずです」(62節)と明言なさいます。

③大祭司は、主イエスの宣言の意味を理解したのです。主イエスのことばは、自らを神とする、「神をけがす」ものだと。そして「イエスには死刑に当たる罪があると決めた」(64節)のです。参照ヨハネ8章56−58節。
65節に見る、主イエスに対する彼らの仕打ち。65節をお読みし、確認します。

[3]ペテロが主イエスを知らないと三回否認 、66−72節
私たちは、14章27-31節において、主イエスがペテロの否認についての予告を見、その際、ペテロがそれを強く否定していた様を読みました。それはペテロだけでなく、他の弟子たちも同様でした。
ペテロがゲッセマネにおいてどのようであったか、また50節、「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった」でも、弟子たちの実情が明らかにされています。その上で、この箇所のペテロの姿を見るのです。

(1)66-68節
「ペテロが下の庭にいると」(66節)。これは、主イエスの裁判が一段高い場所に建てられた建物でなされていると同時に、一段低いところにある庭で、ペテロの主イエスを知らないとの否認がなされたことを示しています。
「大祭司の女中のひとりが・・・彼をじっと見つめて」と、その場面が目に浮かぶようです。

(2)69-70節前半
 「すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、『この人はあの仲間だ』」(69節)と、ペテロに、一人で迫るのでなく、他の人の助力を得ようするのです。

(3)70節後半-72節
「しばらくすると、そばに立っていた人たちが」(70節)、「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから」(70節)と、さらに一段と鋭くペテロに迫ります。
またペテロの主イエスを知らないとの否認も頂点に達します(71節)。まさにそのとき、72節にマルコが描くことが事実となったのです。
72節において、特に二つの点を注意。
①「主のおことばを思いだし」
②「それに思い当たったとき」

[4]結び
今朝私たちは、以下の二点について特に教えられました。
(1)主イエスの宣言。
主イエスがご自身について確言なさっことこそ、私たちが今朝も信仰告白した使徒信條における、聖書の教えに基づく主イエスについての信仰告白の基盤です。

(2)主イエスのことば。
主イエスが語られたことばは、ペテロの思いを越えて彼の心の深みに届き、保たれていたのです。ペテロが一番必要としていたときに、彼のうちに思い起こさせられたのです。主イエスのことばと共に、主イエスご自身がペテロを見つめられたことをルカ記しています。
「しかしペテロは、『あなたの言うことは私にはわかりません』と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。
彼は、外に出て、激しく泣いた。」(ルカ22章60-62節)。