『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその37

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

ゲッセマネの祈り・主の祈り』
マルコ14:27-52

[1]序
(1)今朝は、2月第一主日。今年の2月は、珍しいことに、第五主日まであります。2月五回の主日礼拝では、以下の予定で、マルコの福音書を読み進めて行きます。
2月 1日マルコ14章27−52節、『ゲッセマネの祈り・主の祈り』
8日マルコ14章53−72節、『主のおことばを思い出し』
15日マルコ15章1−20節、『ローマ人もユダヤ人も』
22日マルコ15章21−32節、『十字架から降りよ』
29日宇堅福音教会の石川芳隆先生(地区講壇交換)

(2)今朝の聖書箇所マルコ14章27−52節の中で32-46節に描かれている、ゲッセマネの園の場面に注意します。そのために、まず前後の箇所を見、前後との関係に意を注ぎながら、32−46節の内容を味わい、マルコがマルコの福音書の最初の読者たちに何を伝えようとしていたのか探ります。

[2]前後の箇所 、27−31節、47−52節
(1)前の箇所・27−31節
最後の晩餐の後、賛美を歌いながら進む場面の後、主イエスとペテロの会話をマルコは描いています。主イエスとペテロの会話は、27−29節と30、31節に、同じ内容が異なる表現で二回の繰り返され、その意味が深められて読む者の心に伝えられて行きます。
① 主イエスは、旧約聖書ゼカリヤ15章7節を引用、「わたしは羊飼いを打つ」と、主イエスの十字架とその際弟子たちが逃げ散ると語られます。しかし同時に、ご自身の復活についても、「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤに行きます」(28節)と、力強く宣言語なさいます。

②主イエスのことばに対して、ペテロは、他の弟子たちとの対比で、自分自身の決意を伝えます。
「たとい全部のものがつまずいても」(29節)。

③ペテロのことばに対して、主イエスは、「あなたは、きょう、今夜、鶏が二度なく前に、わたしを知らないと三度言います」(30節)と非常に具体的に、ペテロがご自身を否むことを指摘なさいます。

④31節、主イエスの具体的なことばに対して、ペテロはさらに一段と力を込めて、力説します。
「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(31節)
ペテロ同様、他の弟子たちも、自分たちの決意を強調。

(2)後の箇所・47−52節
 ユダに導かれて、主イエスを逮捕しようとする群衆が登場します。
①彼らの背後には、彼らを派遣した「祭司長、律法学者、長老たち」(43節)が控えています。

②44節には、前もってなされた打ち合わせが明にされます。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しかっりと引いて行くのだ」との打ち合わせどおりことが進む様が描かれます。
前もっての打合せとその実行と、同じ内容を二度繰り返し、場面が読む者の心に深く刻まれて行きます。

③そのとき、ひとつの出来事が生じたのです。
「イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした」(47節)。

④この事態の中で、主イエスが語られる際立つ、主イエスのことば、
「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです」。
主イエスは、ずべての事態の背後に、旧約聖書に約束されている預言の成就を見ておられます。

⑤31節に見た、ペテロや他の弟子たちのことばとの鋭い対比で、
「すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった」と、彼らの実際の姿をマルコは率直に描きます。
51節と52節には、マルコの福音書だけに登場する記事で、一人の青年の姿を描いています。これは、若き日のマルコ自身の経験を描いているものとの理解があります。そう理解するのは、自然では。

[3]ゲッセマネの祈り 、32−46節
32節からは、直接にゲッセマネの園における祈りの場面です。
主イエスが三人の弟子たちに語られたことばと主イエスの祈りそのものを注意。
(1)主イエスの弟子たちへのことば
この場面で、主イエスは弟子たちに、三回にわけ語られている様をマルコは描いています。
①34節。他の弟子たちを置いて、主イエスがペテロ、ヤコブヨハネだけをいっしょに連れて行かれたのです。
そして最初に三人に語られたことばが34節に記されています。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていない」。
「目をさましていなさい」とは、13章33節以下に見た、主イエスのたとえの中で繰り返し強調されていることばです。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」(13章37節)と結びのことばの中で要約している、弟子たちの役割です。

 ②37節と38節。主イエスはご自身が祈られるだけでなく、弟子たちの状態についても配慮なさいます。弟子たちの代表としてのペテロに語られます。
「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができないのか」。このような状態の弟子たちに、なおも語り続けなさいます。
「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けない」、弟子の実情を、「心は燃えていても、肉体は弱いのです」と熟知なさった上で、主イエスは語られています。

 ③41節。「イエスにどう言ってよいか、わからなかった」(40節)状態の弟子たちに、「もう十分です。時がきました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちない」と呼びかけ、ご自身を逮捕しようとする群衆の前に立たれるのです。父なる神の御心がなされるようにとの祈りの中からの行為です。

(2)主イエスの祈りのことば
 このゲッセマネの園の祈りの場面における中心は、主イエスの祈りのことばです。35節と36節そして39節を注意したいのです。
35節と36節
35節には、「それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り」と、主イエスの祈りの内容が伝えられています。この祈りの内容は、36節に見る、主イエスの祈りのことばにおいて、一段と明らかに示されています。
「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」
ここに見る祈りは、ひたすらに父なる神の御心がなるようにとの願いです。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません」と、父なる神が全能なお方であることを堅く信じつつ、さらに一歩踏み込んでいます。全能の神の御心の成就が中心です。御心がなるようにとの祈り、これがゲッセマネの園で主イエスが祈られた祈りの中核です。

②39節。「イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた」と、35節と36節の内容をことばどおりではありませんが、繰り返し強調しています。

[4]結び
  ゲッセマネの園での主イエスの祈りの中心は、父なる神の御心がなるようにである事実を確認しました。
(1)この御心がなるようにとの祈りは、主イエスが弟子たちにどのように祈るのか教えられた、「主の祈り」においても、「みここが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6章10節)と、大切な祈りの内容として提示されています。

(2)主イエスの家族として招かれている弟子たち、そしてキリスト者・教会の特徴は、まさに父なる神の御心が行われるようにとの一点です。