『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその35

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『気をつけよ』
マルコ13:14−14:11


[1]序
(1)今朝は、第二主日礼拝。
礼拝後には、糸数英子姉の指導により、主日礼拝での特別賛美に備えて会衆聖歌隊の練習が持たれます、感謝です。

(2)今朝は、14章1−11節に見るナルドの香油を主イエスの頭に注いだ婦人の記事を念頭に置き、マルコ13章14節から最後の37節までを直接に取り上げ、味わいます。
12章の最後・41節から44節に描かれている、「ひとりの貧しいやもめ」に注意しながら、13章の記事を読み進めて来たのと同じ姿勢です。

[2]「わたしのことばは決して滅びることはありません」 、14−32節
(1)14−23節、その中で
①14−23節を全体として。
14節には、ダニエル書からの引用(9章27節、11章31節、12章11節)がなされています。これは、70年のユダヤ戦争でローマ軍により神殿が汚された事実を指していると考えます。
この関連で、主イエスは、「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」(14節後半)と実際的な指示を与えておられます。
さらにそのときになしてはならない禁止事項も語っておられます。
「屋上にいる者は降りてはいけません。家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません」(16節)。
「畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません」(17節)と、限られた一定の地域の出来事を指し示しています。

ところが19節では、「その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかってなかったような、またこれからもないような苦難の日」と、天地の創造から終末に至る全歴史を視野に入れて、そのときの出来事について事実判断をなしています。
このように全歴史を見通しながら、ユダヤ戦争についての言及と終末の艱難とが、二重写しに描かれています。

21,22節では、6節の「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わす」、また7節の「戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません」、さらには8節の「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです」などに通じるメッセージを、さらに一段と強調し繰り返しています。この警告がいかに大切なものであるかを教えられます。

23節。ここでは、22節までのことごとをまとめています。「だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました」と、主イエスの警告に止まり続ける、そのことの大切さを示しています。

②その中で
14−23節の描写の中で、特に2、3の点を注意したいのです。
その第一は、17節です。「その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です」と、一番弱い立場にある人々に対する主イエスの深い配慮を見ます。さらにこの節を記しているマルコの意図を。

13章の直前に描かれている貧しいやもめ、また13章の直後に見る、ナルド香油を主イエスの頭に香油を注ぐ婦人の描写が位置している意味を私たちは注意して来ました。
そうです。一人一人に注意を払う視点で13章全体を読むべきなのです。
ここでは、13章の内容そのものに、17節、「だがその日、哀れなのは身重の女と乳飲み子を持つ女です」の記述が含まれている事実を重く受け取りたいのです。
次に18節の「ただ、このことが冬に起こらないように祈りなさい」とのことばに、注意。マルコの福音書を最初に読む人々は、単に将来についての定まったことを一方的に知らされるのではないのです。聞いたことに基づいて祈る役割を委ねられています。この点は、35−37節の譬えで、より直接的に取り上げられています。

21、22節に見る、特に強調されている警告「それ、キリストがここにいる」、「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて」に、格別注意。

(2)24−32節、知らないこと、知ること
24節以下では、「人の子」(26、27節、主イエスのご自身についての自称)の来臨について明らかにされています。24−26節では、来臨そのものを天体の大変動を中心に描いています。しかし単に事実の描写に止まりません。
28節以下では、来臨に対する態度について教えています。
① 知らないこと。
まず「人の子」の来臨について知らないこと、知り得ないことに注意。
知らないことを知っていると思い込まないように意識するのは、大切です。
また知り得ないことを、分を忘れて、あれこれ推察するのは、危険な場合が少なくありません。
「人の子」の来臨のときを知らないと、主イエスは明言。
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(32節)。

②知ること。
24−32節で、「人の子」の来臨そのものの描写、また「人の子」の来臨に対する態度について教えている中で、特に際立つ節があります。それは31節です。
「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」
天地は変わることがなく、いつまでも続くと考える社会の中で私たちは産まれ、育って来ました。
ですから、天地が滅びるということ自体、大変なメッセージです。そんなことなど聞くことなく、私たちの日々の生活はなされ、営みが進められています。
しかし真に驚くべきは、「しかし、わたしのことばは決して滅びることがありまん」との、主イエスのことばの永遠性についての宣言です。

[3]「気をつけなさい」 、32-37節
 ユダヤ戦争について、主イエスは言及されたばかりでなく、それに対しとるべき態度を教えておられるのです。
また人の子の来臨についても、同じことでした。その事実とそれに対する態度の両方について教えておられるのを見てまいりました。
32節から37節に見る譬えでは、主イエスは、今までにすでに取り上げて来た、人の子の来臨に対する弟子たちのとるべき態度について、さらに集中して語っておられます。
(1)この譬えの目的は、34節の文頭に「それはちょうど」とあり、33節に「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。」とあるところから知ることが許されています。
そうです、「人の子」の来臨のときがいつだか知らない者として、どのような態度で備えて行くべきかをこの譬えは明示しています。

(2)「旅に立つ人」、つまり主なる神から、「しもべたちにそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ」(34節)ている事実を示しています。 各自がそれぞれに使命を与えられているのです。
「門番」は、しもべたちが委ねられた使命を果たしているかを注意する役割を持ちます。ですから、この譬えは、彼ら指導者が責任が果たして行くようにと励ましを与えています。指導者たち自身が、まず「目をさまして」いる必要があります。そして各自がそれぞれの使命を果たして行くように目をさまして行くように注意。

(3)37節には、「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです」とあります。13章のメッセージは、主イエスの教えを最初に聞いた弟子たちだけのものではない。またマルコの福音書を最初に読んだ人たちだけへのメッセージでもない。いつの時代でも、マルコの福音書を読む人にとっても、「目をさましていなさい」とのメッセージが伝わってきます。

[4]結び
(1)「気をつけない」、このメッセージがマルコの福音書を今読む私たちそれぞれに対するものである事実を改めて確認したいのです。

(2)それぞれの持ち場、立場での役割を果たす営みこそ、目前の将来また終末の時に対する備えであると教えられます。