『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその32

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『一番大切な命令』
マルコ12:28-34


[1]序
(1)今朝はクリスマス礼拝、教会学校と一般の合同礼拝です。何か特別に見えます。しかし、これが首里福音教会の本来の姿なのです。私たちは、マルコ11章17節、「そして彼らに教えて言われた。『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と書いてあるではありませんか」を読んだ際、それがイザヤ書56章7節からの引用であると知りました。イザヤ書56章では、イスラエルの民と外国人や宦官の差別の壁を越えて、主の宮は「すべて」の民の祈りの家であると明示しています。
さらにマタイが描くこの場面の記述では、大人と子供の年齢の壁を越えて(マタイ21章15節後半、16節)、主の宮は「すべての民の祈りの家」である事実を指摘しています。
「また宮の中で、子供たちが、『ダビデの子にホザナ。』と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。そしてイエスに言った。『あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。』イエスは言われた。『聞いています。あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがた読まなかったのですか。」
 そうです、大人も子供も、年齢の壁を越え、すべての民が礼拝の場に集うのは、本来の姿であり、当たり前。

(2)今朝の聖書箇所には、主イエスのもとに来て質問をした、もう一人の人物が登場します。今まで私たちが見てきた、「祭司長、律法学者、長老たち」(11章27節)、「パリサイ人とヘロデ党の者数人」(12章13節)、「サドカイ人たち」(12章18節)など質問の形を取りながら斬りつける人々と、彼は違います。主イエスとの問答において「賢い返事をし」、「神の国から遠くない」(34節)と主イエスは評価しています。

  また今朝の箇所では、27節までと同様、主イエスの権威が課題となっています。そこで24節に見た、「聖書も神の知らない」との主イエスの指摘に、もう一度注意したいのです。神の権威と聖書の権威は切り離せない。主イエスご自身に焦点を合わせ言えば、聖書の指し示す主イエス、主イエスが明らかにする聖書、この二つは一体となっており、まさに両者の権威は切り離せない。切り離してはいけないのです。
前後関係の「後」については、34節の「だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった」(参照1章22節)が、手掛かりになります。この後は、主イエスは教えてこられたことを実行なさるのです。裁判から十字架と進む主イエスに、人々はもはや議論を吹きかけないのです。
今や、主イエスの教えの権威だけではない。十字架を担う贖いの業において、主イエスの権威が確立される場面へと展開して行く。

[2]「どれが一番たいせつですか」、 18−31節
(1)「どれが一番たいせつですか」、28節
 律法学者の問い、その意図は直接明らかにされていません。しかし主イエスが彼に対し34節、「イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。『あなたは神の国から遠くない。』それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。」に見る評価を与えておられることから、質問の動機は、序で見たように、27節までに登場する人物たちのような悪意のあるものではないと判断できます。

(2)「一番たいせつなのは」、29-31節
①一番たいせつなものを示すに当たり、その土台は、「イスラエルよ。聞け、われらの神である主は唯一の主である。」と、主イエスは強調なさっています。神は唯一、唯一の神。この唯一の神が、「アブラハムの神、イサクの神、ヤブの神」(26節)なのです。そしてイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解き放してくださったのです。
そうです。唯一の神が、どのような救いのご計画を持ち、それを実行なさったかを含めて、「われらの神である主は、唯一の主である」と、イスラエルの民は聞く必要があるのです。そしてこの律法学者も、マルコの福音書を最初に読む人々も、そして今、読む私たちも、同じくそうなのです。
何をなすべきかの命令の前に、「唯一の神」が先行するのです。この事実は、この二つの大事な命令(31節)の基盤となっている、モーセ十戒でも明らかです。出エジプト記20章を見たいのです。3節から明示している、主なる神についての戒め・教え、また12節以下の隣人に対する戒め・教えに先立ち、2節が決定的に大切。この恵みの事実、神の恵みこそ土台であり、基盤です。
「 わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の国から連れ出した、あなたの神、主である 」。
まず主なる神の救いの御業です。この驚くべき恵みの御業への応答としての戒め・教えなのです。

②「イスラエルを聞け」から30節の最後までは、成人したイエスラエルの男子が、朝に、夕に信仰の告白として唱和したものと言われます。申命記6章1−9節。11章13−21節、民数記15章37−41節。
要(かなめ)は、上記の神への愛と信仰が、31節に見る隣人愛と切り離せないと主イエスが指し示しておられる事実です。参照ヨハネ15章1−17節。

[3]「先生、そのとおりです」、32-34節
(1)「先生、そのとおりです」、32節。
主イエスに同意できる人、何と幸いな人でしょうか。主イエスに同意できる、実に幸い。

(2)「どんな全焼のいけにえや供え物よりも」、32節。
人間の側の行為が中心に見られがちな全焼のいけにえや供え物よりも、神への愛、隣人への愛が大切だと、この律法学者は同意します。

[4]結び
(1)主イエスの評価。
①34節に見る「賢い返事」、さらに「神の国から遠くない」。神の国に今一歩と、最後の一歩を踏み出すように、主イエスは招いておられます。参照ヨハネ4章25、26節、「女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
エスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」。

(2)「一番たいせつ」な命令より、さらに大事なクリスマスの恵み。
「われらの神である主は、唯一の主である」、「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1章1節)。
なおこの律法学者に足りないものを改めて確認したいのです。
第一は、人間側から何をするかではなく、「初めに」、主なるなの神です。この律法学者は確かに、人の側からする応答について深く洞察しています。しかしまず先手である主なる神の恵みについては、そうではないのです。恵みの体現である、目前の主イエスに対し未だ目が閉ざされている状態です。クリスマスの恵みを率直に受ける、これが課題なのです。
クリスマスの恵みを見事に指し示している聖句をもう一度お読みします。
「 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があります。 」(Ⅰヨハネ4章9、10節)。
そしてローマ5章8−11節。

(3)クリスマスの恵みを受けている、ではその応答は
 Ⅰヨハネ4章9、10節の直後、11節を注意したいのです。
「 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです 。」
命令から出発ではなく、神の恵みがすべてに先行し、基盤なのです。しかも命令を軽視も、まして無視などしない。ここでも、Ⅰコリント15章10節。
人から神への愛の応答、そして隣人への愛へとの広がる、この恵みの応答の源泉は、父なる神からの驚くべき恵みの事実です。父なる神の愛の現れ、クリスマスの出来事こそ源泉なのです。参照ローマ13章8−10節。