『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその29

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『愛する息子の死、それが礎の石』
マルコ11:27−12:12
[1]序

(1)今朝の主日礼拝において、先週の主日礼拝、また来週の主日礼拝のことを考えます。
先週の主日礼拝、丸山軍司先生が首里福音教会で宣教を担当してくださり、感謝です。私も主日礼拝のテープを車を運転しながら聴き、あたかも主日礼拝の場に自分もいるかたの思いに導かれました。
城間ナザレン教会における、私に委ねられた宣教の役割のため首里福音教会で祈っていてくださる恵みの事実を、改めてしっかりと心に刻んだのです。
テープを聴きながら、もう一つのことも深く教えられました。城間ナザレン教会で祈ってくださっていたのは、この首里福音教会の礼拝であり、そこに集う兄姉のためであったと、これまた恵みの事実そのものです。

さらに来週の主日礼拝を展望せざるを得ないのです。来週も、首里福音教会の主日礼拝で、丸山軍司先生が宣教を担当してくださいます。
私は聖望キリスト教会で宣教に当たります。聖望キリスト教会においては、いつものように首里福音教会のため祈ってくださるに違いありません。そして勿論、首里福音教会においても、聖望キリスト教会のため、そこで宣教を担当する牧師のため祈ってくださいます。私たちが2004年4月から開始しようとしている歩みの前味と言えないでしょうか。

(2)今朝の聖書箇所は、マルコ11章の最後と12章の最初です。聖書の章節はとても便利です。聖書がもともと記録された時点では無かった章や節を加え用いることにより、現に私たちが経験しているように、とても便利になりました。
しかし便利なものには、案外落とし穴もあるものです。11章の最後と12章の最初を切り離してはいけないのです。この両者を続けて読む必要があります。そのことを、今朝、私たちは試みます。それが本来、最初のマルコの読者がなし、マルコ自身が意図したことなのです。
参照12章41−44節と13章1、2節。そこに見る、主イエスが心を注ぐ人物と弟子たちが目を注ぐ建物の鋭い対比。

[2]「何の権威によって」、 11章27−33節
27節以下では、主イエスの弟子たちの姿は表面的には場面から消えます。しかし弟子は、大切な主人公です。権威をめぐる激突の中で、この私たちは、どのような権威に従うのか問われています。最初のマルコの福音書の読者も、今、ここで読んでいる私たちも、同じく権威をめぐる問いに直面しています。
(1)27-33節の流れ
①27、28節。主イエスに敵対する人々は。
「何の権威によって、これらのことしておられるのですか」と主イエス問い迫るのです。この三つのグループの人々については、8章31節、14章43節、53節、15章1節を参照。

②29、30節。それに対しての主イエスの反問。
当時の論争では、何か問われる場合、直接に答えを与える場合以外に、問う者に対して逆に質問することにより答える仕方があったのです。ここで主イエスは、相手の質問をはぐらかしたのではなく、相手に反問することにより、問題点を鋭く衝くのです。

③31−33節前半。主イエスの反問に対して、敵対者たちは当惑します。洗礼者ヨハネは、「天から(神から)」(31節)の者とは信じないのです。
しかしまた「人から」と言えば、「ヨハネは確かに預言者だと思」(32節)う群衆の反感を買うと恐れたのです。
そこで祭司長、律法学者と長老たちは、「『わかりません』と言った。」(33節)のです。

④33節。このような主なる神への不信仰と群衆に対する恐れからの「わかりません」に対して、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがに話すまい」と主イエスは解答を拒否なさいます。

(2)主イエスの権威とは。
以上に見るように、祭司長、律法学者と長老は、権威をめぐる自分たちの問に主イエスがなされた反問に対して、「わかりません」(33節)と答えました。
この「わかりません」に注意する必要があります。本当にわからないのではない。わかっていると認めたら、自分は今の状態でいることができない。それを避けたり、引き伸ばすのを目的とした、「わかりません」なのです。
主イエスの権威について、祭司長のように自分が裁判官の席につき、問うことなどできないのです。主イエスを被告席に座らせながら、主イエスの権威について知ることなどできない。
主イエスの権威を知る道、それは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(8章34節)、この招きに応答して歩む道一筋です。

[3]「愛する息子」、 12章1−12節
このたとえにおいて、「ある人」(1節)、「農夫たち」(1節)、「しもべ」(2節)、「愛する息子」(6節)が、それぞれ誰のことを指しているかは明らかです。
(1)「ある人」、父なる神
2節に、「ある人がぶどう園を造って、垣根を巡らし、酒ふねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」とあります。
「全能の父なる神」(使徒信條)は、下線を引いたように動詞を繰り返して描かれている、万物の源なるお方です。参照ローマ11章36節、「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」。
しかし私たちの病んだ目からすると、創造者は旅に出て不在であるかのように見えるのです。

(2)「農夫たち」、イスラエルの民、特に指導者に代表される人間の現実
 父なる神から送られる預言者たちに対して、次第に酷さを増す行為(2−5節)、そしてついには「愛する息子」殺害。当時の時代背景から、息子が来たのは、ぶどう園の主人が死んだ事実を意味し、息子の殺害で、ぶどう園の所有権を我が物とする目論(もくろみ)みをこの箇所は示しているとの理解があります。

(3)「しもべ」、旧約の預言者たち

(4)「愛する息子」、主イエスご自身
主イエスの死とともに、12章10、11節に見る詩篇118篇22、23節からの引用をもって、主イエスの復活も明示しています。


[4]結び
(1)「彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいた」(12章12節)。
このたとえを聞いた祭司長、律法学者と長老たちが知るべき二つの側面。
①このたとえが「自分たち」をさしているのは、その通りです。

②しかしこのたとえが主イエスをもさしている事実をも知るべきなのです。
◆神様を知ることなく、自分を知ることはできない。自分を知ることなくしては、神様を知ることはできない。宗教改革者の一人は、神認識と自己認識は切り離せない事実をしっかり認めることが、キリスト信仰の生活・生涯にいかにおいて大切な土台であるか明言しておられます。

(2)主イエスご自身について。
①聖書の中心は、主イエスご自身(マルコ8章27−30節)、「彼をつかまえて殺してしまい」(12章8節)とあるように、愛する息子の死・主イエスっを十字架へ。

③主イエスへの信仰・キリスト論の源泉は。
主イエスの自己意識、ヨハネ8章48−59節、特に58節と59節、「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』
すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた」。
主イエスはご自身の神性について深く意識し伝えたのです。それを聞いた弟子たちが受け入れ(ヨハネ20章28節)、伝え、記したのです。
決して弟子たちが、イエスは神と考え出したのではないのです。

(3)主イエスの権威(マタイ28章18−20節)は、先頭に立ち進まれる主イエスに、委ねられた十字架を涙と汗をもって担いつつ歩む者に認められるのです。先頭を立ち進む主イエスに従う中で、私たちも涙と汗を流しながら、主イエスの権威がどのようなものであるかしっかり受け止めたい。

 「 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、御霊の御名によ、バプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 」(マタイ28篇18−20節)。