『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその24 

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『神は、そうではありません』
マルコ10:13ー31
[1]序

(1)沖縄でも、ふとしたことごとに秋を感じる日々の中で、今朝も主日礼拝の恵みを感謝します。

(2)今朝の聖書箇所は、少し長いものです。大きく二つの部分に分け、味わいます。前半は、13−16節の箇所です。1-12節に見る夫と妻の関係を創造のはじめに立ち取り上げている部分に引き続く、子どもたちを直接の課題とした箇所です。
後半の17−31節は、ひとりの富める青年が主イエスに永遠のいのちについて問うことを契機に、神の国に入ること・救いについて、主イエスが弟子たちに教えなさる記事です。

[2]「神の国は、このような者たちのもの」、 10章13−16節
(1)子どもたちに対する弟子たちの態度。
①「イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た」
この箇所で直接焦点を当てられているのは、子どもたちです。私たちの注意を引くのは、連れて来られた子どもたちに対する、主イエスと弟子たちの態度のはっきりした違いです。
なぜ「イエスにさわっていただこうとして、人々は子どもたちを、みもとに連れて来た」(13節)のでしょうか。当時の人々が、ラビ・律法の教師に子どもへの祝福を求めたように、主イエスから子どもたちに対する祝福を求めたためと推察できます。参照マタイ19章13節、「そのとき手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた」。

②「ところが、弟子たちは彼らをしかった」 。
では、なぜ、「弟子たちは彼らをしかった」のでしょうか。
「しかった」と訳されている単語が、どのようにマルコの福音書で用いられているかを見、ここでの意味を確認したいのです。これは、私たちがすでに以前見たことの復習にもなります。
まず注目したいのは、3章12節です。そこでは、主イエスが汚れた霊どもに対して戒め(叱る)ておられます。
また4章39節では、主イエスが風と湖をしかりつけたと記されています。
さらに8章33節では、「さがれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と、主イエスがペテロをしかったとマルコは記しています。
以上のいずれの場合も、主イエスの権威(万物を御手に治め統治なさるお方として、また弟子たちに対する権威)に基づく事実を示しています。
ところが、8章32節では、ペテロが僭越(せんえつ)にも、主イエスに対して「いさめ始めた」とあります。主イエスの権威を否定して、ペテロは自分の意見や見解を押し付けようとしているのです。
 この10章13節でも、上記に見てきたと同じ単語が用いられています。弟子たちは、主イエスのもとに子どもたちが来るのを受け入れるか退けるかは、自分たちの判断による、自分たちはそれなりの権威を持つと考えていたのです。自分たちの仲間でない者が主の御名で奇跡を行なうことを禁じたヨハネの態度に通じるものです(マルコ9章38節以下)。

(2)子どもたちに対する、主イエスの態度。
①「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた」
弟子たちの態度に対して主イエスは、「憤って、彼らに言われた」(14節)とあります。ご自身のもとに近づく子どもたちを退けようとする弟子たちに対して憤られたのです。子どもたちに対する愛から発したことばです。そして主イエスご自身が子どもたちを招いておられます。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません」

②主イエスの教え
しかし主イエスは、憤られただけではありません。弟子たちに対して、子どもについての大切な教えを与えています。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」。
自分の子どもの祝福を願う動機で、母親たちは子どもたちを主イエスのもとに連れて来ました。このようにして連れて来られた子どもたちを、主イエスは本当の祝福へと導いておられます。様々の動機で主イエスご自身のもとに来る人々、その人々の動機を引き上げて、主イエスは真の祝福へと導かれます。

[3]「神は、そうではありません」、17−31節
 子どもについての記事に続き、財産をめぐる記事をマルコは伝えます。このように日常的なことごとを通して、弟子の道が指し示されています。
(1)「この人は多くの財産を持っていたから」、17−22節
ここに登場する、「ひとりの人」(17節)は、「走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた」(17節)と、とても丁寧(ていねい)な態度で、主イエスに質問をなしています。しかもそこで問われている課題は、「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのですか」(17節)と重大なものです。
この問いに対して、主イエスは、19節に見るように、モーセ十戒の後半の戒め(出エジプト20章12節以下)を取り上げておられます。
この答えは、この人にとっては意外なものであったと考えられます。「先生。そのようなことはみな、小さい時から守っております」(20節)と、答えています。「小さい時から」とは、律法の前に責任を持つとされる十二歳のときからの意味と見てよいでしょう。
さらに主イエスは、「彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」(21節)のです。ここに見る、主イエスのまなざしは、弟子たちを招き寄せなさる記事で私たちがすでに見たものです。1章16、19節、2章14節の実例を確認。
この主イエスの思いから、21節の後半のことば、「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と22節、「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである」に描かれていることを理解する必要があります。
全体として、主イエスのいつくしみの深さが滲み出ています。

(2)出来事の意味、23-27節。
23節以下の場面では、17節以下に見た出来事が弟子たち全体の課題になり、出来事の意味が明らかにされて行きます。
23節では、「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう」と、17節以下に見る富める青年の記事が直接取り上げられています。
しかし24節、「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」と、誰にとっても神の国に入ることはと、話題の対象が人間全般にとってと大きく広げられています。
26節、「それでは、だれが救われることができましょうか」に見る弟子たちの驚きは、富みが神からの特別な祝福と考えられていた当時の背景から、よく理解できるものです。
神の国に入るために、人間がなにかをする人間中心の考え方が厚い壁に直面してしまう様が明らかにされています。
27節、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」。神の国は一方的な賜物であると、福音の中心が明示されています。この恵みの事実こそ、今朝の箇所の中心なのです。

(3)経済的な祝福に対して取るべき態度、28−31節。
28節以下では、もう一度、直接富の課題が取り上げられます。
ここでも、ペテロは彼らしく、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」と率直に語っています。このペテロの語りかけに、主イエスは、29節と30節に見るように、経済的祝福の約束をもって答えておられます。
経済的な祝福を得ている実例として、コリント教会の場合を見たいのです。Ⅰコリント1章26−28節には、コリント教会の誕生の頃の様子が描かれています。ところが、手紙が書き送られた頃のコリント教会には、10章22節から判断すると、貧しい人々と共に豊かな人々もいたようです。
そして課題は、富んですべての必要が満たされているように見えるとき、富が目的となり、主イエスに従うことの障害とならないよう注意が大切です。17−22節の記事を弟子たちは我がこととして受け止める必要があります。

[4]結び
永遠のいのちのために、私たちがなにをなすべきか、なにをなし得るかを考えるとき、人の限界を知り、無力さを教えられます。
この人の無力さが教えられる、まさにそのとき、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」(27節)と福音の調べを聞くのです。
最後に、二つの聖句をお読みします。
「 私は山に向かって目を上げる。
  私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。 」(詩篇121篇1、2節)。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分のものではないことを知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。 」(Ⅰコリント6章19、20節)。