『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその22

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『主イエスの弟子の道』
マルコ9:30-50


[1]序
(1)今朝は、2003年度前半最後の主日礼拝です。
10月からの年度後半の歩みを展望しながら、この移行の時を過ごしましょう。

(2)今朝の箇所・マルコ9章30−50節で目立つことの一つは、カギとなることばが幾つかの意味を持ち、繰り返されている点です。
たとえば、48節の「火」は裁きを指しています。それが49節では、試練を指し、試練によって腐敗を防ぐ塩けに結ばれています。このようなカギとなることばを注意しながら、50節に見る結論、「互いに和合して暮らしなさい」を、この箇所の主題と見たいのです。

[2]主イエスの弟子、その土台、 9章30-37節
50節、「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」の頂点へ向けて、主イエスの弟子の道がこの箇所全体を通じて明らかにされています。
まず30−37節では、その土台について取り上げられます。
(1)主イエスの十字架と復活、30−32節
すでに8章31節において、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」と、主イエスは弟子たちに教えたとマルコは記します。
しかし、ここでもう一度、主イエスは弟子たちに十字架と復活について強調なさるのです。ところが、この度も「弟子たちは、このみことばが理解できなかった」(32節)と、マルコは率直に記しています。

(2)[このような幼子のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば」、33−37節。
主イエスのことばを理解できなかった弟子たちの実情が、33節ではさらに実際的に明らかされて行きます。
①「道で何を論じていたのですか」(33節)と問われている「道」、それは主イエスがご自身の十字架と復活について教えられていたとき、弟子たちが歩んでいた道です。その道で、弟子たちは、「誰が一番偉いかと論じ合っていた」(34節)のです。弟子たちの関心と主イエスの教えの大きな違い・落差が明らかにされています。

しかしこのような弟子たちをそのままにしておくのでなく、彼らに対して弟子の道を主イエスはなおも教えられます。それは、弟子たちが、道々論じあって来たことに対する本当の答えであり、弟子たちが求め続ける生きた方がどのようなものであるかを示すものです。
「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(35節)。
ここで、「仕える者」と訳されていることばは、あのペテロのしゅうとめが、主イエスに病いやされたとき、彼女がなした行動を表すため用いられています。マルコ2章31節を思い起こしたいのです。
「イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした」。
病いいやされ喜びと感謝の中に、自分のできる範囲で、他の人々の必要を満たして行くために働く、その中に主イエスの弟子たちの道が示されているのを見ます。さらにマルコ10章45節参照。

②「このような幼子のひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる」(37節)
主イエスは、「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(35節)と、弟子の道の基盤を教えられただけではありません。教えは大切です。しかしそれに加えて目に見える形での実践を指し示したのです。
主イエスは、「ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せ」られたのです。一つ一つの行為に、主イエスのひとりの子どもに対する深い愛が滲み出ています。
主イエスの子供たちへの深い配慮について、マルコはヤイロの娘の記事(5章21節-43節)において、印象深く記していました。記事の最後の部分を注意したいのです。
まず39節では、「なぜ取り乱して、泣くのですか。子ども死んだのではない。眠っているのです」と、主イエスは力強く宣言なさっています。
続いて、40節では、「ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた」(40節)と、一人の子ども・ヤイロの娘に焦点を合わせています。さらに、「その子の手を取って、『タリタ、クミ』」と言われた」(5章41節)と、まさに主イエスは一人の子ども・ヤイロの娘に心を注ぎ、彼女を受け入れておられます。
主イエスがヤイロの娘になさっているように、弟子たちも、
「このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる」べきことを示し、それはまさに「わたしを受け入れるのです」と、幼子に対する態度が主イエスに対する態度である事実を明らかされます。幼子とご自身が同じように見られるのを主イエスはよしとなさいます。
さらに「わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです」(37節)と、一人の幼子に対する態度が父なる神と御子イエスの深い関係をも指し示と、主イエスはこの結びの大切さを弟子たちに明らかになさいます。

[3]主イエスの弟子たちの交わりの広がりと責任 3章38−50節
弟子たちが不十分な状態にあったにもかかわらず、彼らを相手にしないのではなく、その弟子たちに主イエスの弟子の道の基盤を明らかにされました。しかもことばだけでなく、一人の幼子を通し重ねて教えられたのです。 今、弟子の道の基盤に立ちつつ、弟子の道の広がりと責任について主イエスが取り上げて行く様をマルコは伝えています。
(1)弟子たちの交じりの広がり、38−41節が
主イエスの弟子たちの道の基盤が明らかにされると同時に、ひとつの課題が38節において取り上げられています。
主イエスの名によって悪霊を追い出している者を、自分たちの仲間でないからやめさせたとヨハネは報告します。これは、直接自分たちの間だけに、主イエスの弟子たちの輪を制限すると考えるなら、当然なことです。
しかし主イエスは、二つの点を、ヨハネに答えられます。
①まず、「やめさせることはありません」(39節)と中心点が明らかにされます。その理由として、「わたしの名」の重みを示し、「わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです」(39節)と主イエスは教えられます。

②さらに、「わたしたちに反対しない者は、わたしの味方です」(40節)と、広がりが明にされます。
 また41節では、「キリストの弟子」に対し水一杯を飲ませることの祝福を明らかにします。小さくささやかなことも無視なさらないのです。

(2)責任、「塩けを保ちなさい」、42−50節」
弟子たちの交わりの広がりについて言及なさった直後に、主イエスは弟子たちの交わりの責任について取り上げます。二つの面から、
①42−48節、[つまずき」ということばを4回も繰り返し、強調しています。
最初は、「わたしを信じるこの小さい者たちのひとり」(42節)に対してです。小さい者や弱い者への配慮が強調されているのを見ます。
続く三つは、手、足、目と体の一部を指して、それらがつまずきとなるなら、それらをとりさってでも、「いのちにはいる」ほうがよいと極度に強調し勧めます。

②49−50節、30節以下の結びが、「塩け」をカギのことばとして明らかにされています。
「塩けがなくなれば、何によっ塩けを取り戻せましょう」と警告が与え、「あなたがたは、自分のうちに塩けを保ちなさい」と主イエスは勧めておられます。さらに塩けを保つとは、それは「和合して暮らす」ことなのだと明示なさいます。

[4]結び
弟子たちに示された道は、彼らが和合して暮らす中で実現されて行くと主イエスは教えられます。
この 「和合して暮らす」と訳されていることばが、新約聖書の他の箇所で用いられている三つの例を見、意味を確認したいのです。
①ロ−マ12章18節、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい」。和合して暮らす人々の範囲が、単に主イエスの弟子たちの間だけでなく、「すべての人と」と広がっています。
しかしことがらが自分のことに関する限りであると限定されている点も注意する必要があります。

②Ⅱコリント13章11節「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい」。
「和合して暮らす」・「平和を保つ」ためには、主イエスから慰めを頂き、心のうちに喜びを注がれる必要があります。

③Ⅰテサロニケ5章13節、「お互いの間に平和を保ちなさい」
 平和を保つのは、一時的なことではなく、継続的なことです。