『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその4

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『安息の主』
マルコ2:23−3:6

[1]序
(1)今朝は5月第1主日の礼拝、5月の歩みを全体として展望する機会です。その中で時別に一つの感謝があります。
昨年5月に開始した、主日朝7時から8時FM21『希望の朝』の放送、1年が経過しました。今月第4主日の時間には、昨日5月3日の憲法記念日にちなみ、日本国憲法の、特に基本的人権について聖書の視点から取り上げたいと願っています。
幾つか制約の中ですが、「希望の朝」のため月一回の当番、首里福音教会なりにその分を果たせるよう祈り続けて行きましょう。

(2)今朝の聖書箇所、2章23−29節と3章1-6節に二分でき、いずれも安息日をめぐる出来事を記しています。

[2]「読まなかったのか」 、2章23−28節
 この箇所では安息日をめぐり、パリサイ人と主イエス旧約聖書の読み方をめぐる鋭い対立を明示。
(1)パリサイ人たちの詰問とその根拠。
「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか」(24節)。
主イエスの弟子たちのこの時の行為そのものは、当時許されていたと言われます。パリサイ人たちが責めるのは、安息日にその行為をなしたからです。穂を摘み、籾殻(もみがら)を取って食べる行為は、刈り入れ・脱穀(だっこく)・調理であり、安息日になすことは禁じられていると見ます。そして安息日に禁じられている行為をなす弟子たちよりも、彼らの行為を黙認している主イエスが問題だとパリサイ人たちは迫るのです。

(2)主イエスの答え。
ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたのか、読まなかったのですか」(25節)。
主イエスの答えは、当時イスラエル人なら誰でも尊敬している、ダビデ王の行為について聖書が記している事実を指摘し、「読まなかったのですか」と切り返します。
勿論、パリサイ人たちはその記事を読み、よく知っていたのです。鋭く指摘されているのは、聖書を読むか読まないかではなく、どのように聖書を読むかの課題な
のです。

(3)基本・柱。
安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です」(27−28節)。
私たちが今読んでいる場面を、マタイの福音書では、より詳しく記しています。参照マタイ12章1−8節。その中で12章5節、「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか」は、安息日における祭司の働きを取り上げており、「本当にそうだ」と読む者に十分納得を与える指摘です。
27節は、マルコ特有のもので、このことばがあるため、本末転倒から解き放ち、本来の在り方を提示する28節のことばが一段と際立ちます。
参照マタイ12章8節、「人の子は安息日の主です」。
ルカ6章5節、「そして、彼らに言われた。『人の子は、安息日の主です』」。

[3]主イエスの怒り、嘆き 、3章1-6節
(1)主イエスの怒り。
①2節、「イエス安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた」とある通り、病める人の存在そのものを大切にしてはいないのです。その人の命が重んじられるのではなく、主イエスを訴える手段として用いられてしまうのです。
人間を手段や道具のように取り扱う現実に直面して、主イエスはそうした人々をくびきから解き放ち、本来の人間、人間らしい人間へと回復してくださるのです。切り口は、主イエスの呼びかけ、「手を伸ばしなさい」です。

②「善を行なう」、「いのちを救う」、そのことを敵対者たちはしようとしない。そればかりか、反対に邪魔をするのです。

③「彼らは黙っていた(4節)。マルコは、後にもう一つの沈黙の場面を描いています。参照9章34節、「彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである」。パリサイ人ばかりでなく、弟子たちも沈黙。その中で、主イエスは十字架への道を一歩一歩と。

(2)主イエスの嘆き。
①「その心のかたくななのを嘆きながら」(5節)。しかし主イエスは何もしないのではないのです。

②嘆きながらも、「その人に『手を伸ばしなさい』と言われた」。
主イエスのことばに応答、「彼は手を伸ばした」。
その結果、「するとその手が元どおりになった」

③6節、「そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた」。
2章1節以下、主イエスに対する攻撃が次第に激しくなり続いています。
「子よ。あなたの罪は赦されました」(2章5節)との、主イエスの宣言は、「神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」(7節)と、自らを神と等しい者と主張している冒涜罪だと攻撃を受けました。

(3)また2章12−17節の場面では、「取税人や罪人たちといっしょに食事をする」(16節)、つまり自らを罪人たちと同じとすると鋭く批判されています。
このように、パリサイ人たち指導者は、二つの面から主イエスを攻撃。
①ナザレの主イエスは、自らを神の位置まで引き上げようとする。
 
②また反面、宗教的指導者であるとするなら、なぜ自らを罪人の位置まで引き下げるのか。
いずれにもしても、ナザレのイエスは、一宗教的指導者としての枠におさまらないのです。主イエスは、まさに全き人となられた全き神であり、人々の無理解と攻撃を受けながら十字架への道へと進まれるのです。

[4]結び
(1)人の子は安息日の主。
 主イエスは十字架への道を通して、安息日主日に。手段や道具として使われてしまっている人々を、聖書に明示されている人間本来の姿への回復。この解放は、人を手段や道具として使う人々をも解き放つ道です。初代教会は、主イエスの復活を記念し、安息日を主の日として、週の初めの日に主日礼拝(Ⅰコリント16章2節、「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい」)。

(2)モーセ十戒に見る安息日についての教え(出エイプト20章0、11節)を、現代社会における安息日首里福音教会の主日礼拝として受け止める道。
①まず神の恵みが先行、創造の事実と主なる神ご自身の安息、
出エジプト20章11節、「それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された」。
創世記2章2、3節、「神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである」。

また出エジプトの恵みが先行。
出エジプト20章2節「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である」。

②安息は、善を行ない、いのちを救うための備え。
エペソ2章10節、「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです」の基本。