『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその1

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

イエス・キリストの福音のはじめ』 マルコ1:1-13

[1]序
(1)今朝の主日礼拝から、マルコの福音書を読み始めます。
1986年4月、首里福音教会の牧師として着任直後の第一主日の礼拝で、皆様とヨハネ福音書を読み始めたのです。
その後現在まで、聖書の他の箇所を味わいながら、ルカの福音書とマタイの福音書主日礼拝で取り上げ聴従してきました。

(2)今回は、2000年3月最後の主日まで、マルコの福音書主日礼拝で一歩一歩読み味わい進みます。その期間、まずマルコの福音書を各自が通読なさるよう心より勧めます。一度ならず、2度、3度と。さらに他の福音書も同じく通読できたら、それは嬉しいことです。

(3)今日まで十数年間、説教者が躁(そう)と鬱(うつ)の状態を繰り返す中、皆様の祈りと忍耐を通し、首里福音教会の主日礼拝の宣教・説教は支えられて来ました。主治医の兄弟をはじめ、医療従事者が少なくない私共の群れにおいて、私たちが直面している事態を直視し、深く理解しながら、なお恵みの御手に私たちは導かれてきました。
今回マルコの味わい聴く者と語る者双方、そうです、群れ全体が今まで十数年の特別な恵みに対する心からの感謝の献げものとなるような主日礼拝を、主にあって期待し祈りを重ねたいのです。

(4)主の憐みを求めつつ、マルコの福音書味読を通し、「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思」(Ⅱテモテ2章8節)う生活を重ね、生涯の営みを続けたのです。
主日礼拝において集中的また意識的にこの一事をなし、各自の持ち場・立場の週日の歩みの中での礼拝の生活に備えます。

[2]1ー8節、「荒野で叫ぶ者の声」
(1)1-3節
①1節、表題、はじめ・アルケー 福音の イエス・キリストの [御子 神の]。
1節は、マルコの福音書全体、また1-13節の表題・何が書いてあるかを明示。
「はじめ・アルケー」、
「福音(の)」、この言葉が当時の皇帝礼拝との関連で用いられていた事実に十分注意を払う必要があります。皇帝は平和をもたらす神王として崇拝されていたのです。その皇帝の誕生や即位の際、布告されたのが「福音・喜びのおとずれ」です。新しい時代が今日から始まると、喜びの音信が伝えられたのです。
ですから「福音」という言葉そのものは、人々に良く知られており、この言葉を用い、使徒たちは、皇帝礼拝に鋭い挑戦をなしつつ、皇帝礼拝における喜びでなく、主イエスにあるただ一つの、真の喜びを宣べ伝えたのです。
イエス・キリストの」福音が示す意味として、二つの可能性が考えられます。
一つは、主イエスが教えた福音。
もう一つは、主イエスについて(が主題)の福音。
ここでは後者の意味と取りたいのです。しかし主イエスについての教えは、主イエスご自身がなされた教えに根差す事実を大切に。

②2、3節、旧約からの引用。
2節は、マラキ3章1節からの引用。
マラキからヨハネが悔い改めのバプテスマを宣言するまで、約400年の年月が経過しています。今、ロ−マに圧迫されている現実のただ中で、もう一度解き放ちの御業がなさるのです。
3節は、イザヤ40章3節からの引用。
「荒野で叫ぶ声」は、もともとイザヤ書においてはバビロン捕囚からの第二の出エジプトについて宣べ伝えています。聖書の世界では、荒野は寂しく孤独な場所を意味しないのです。荒野とは、主なる神による解き放ちを待ち望む場所であり、まさに福音を聴く場所なのです。参照12、13節。

(2)4-8節
①4-6節、洗礼者ヨハネ
旧約聖書の預言に基づき、旧約から新約の転換期に立つバプテストマのヨハネ

②7、8節、さらに力のある方・主イエスによる聖霊バプテスマ
ヨハネは自分自身の立場を深く自覚、 「私には、かがんでその方のくつのひもを解く値打ちもありません」(7節)と言い切ります。当時の奴隷は、どんな命令にも従う必要がありました。しかしそんな奴隷でも他人のくつのひもをとくことまでは求められなかったと言われます。
誰にも求められないことにさえ、自分は相応しくないと、ヨハネは主イエスと自分が全く次元の違う存在である事実を明言しています。参照ヨヘネ3章30節、「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」。
ヨハネは、「私よりも力のある方」(7節)、「聖霊バプテスマをお授けになる」(8節)と、主イエスを指し示しています。

[3]9-12節、「御霊はイエスを荒野に」
徹底したキリスト信仰と徹底した聖霊信仰は、不可分。
(1)9−11節、主イエスバプテスマを受ける場面。
バフテスマのヨハネを通して舞台装置が整う中、主イエスご自身の登場です。
聖霊バプテスマを授けるお方自身が、こともあろうに、ヨハネから罪の赦しのバプテスマを受けようとは。
主イエスの福音とロ−マ皇帝のそれとの驚くべき違い!
ローマ皇帝のそれは、上へ上へと、他の人々を押し潰して進む道。何の値打ちもないと言うヨハネ、そのヨハネのもとで罪の赦しのバプテスマを受ける主イエス、まさに下へ下への道。
そのどん底で、9−11節なのです。

◆三位一体なる神のご自身の美しい啓示(ベールが取られる)の場面。まさに主イエス・キリストの福音のはじまり・アルケ−。

(2)12、13節、荒野の誘惑。
「御使いたちがイエスに仕えていた」、
マルコ1章31節、「彼女は彼らに仕えた」、そしてマルコ10章45節、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」を注意深く参照。

[4]結び (1)はじめ・アルケ−。
①はじめ・アルケーがいかに大切か。
創世記1章1節「「初めに、神が天と地を創造した」は、聖書全体・すべてのことごとの基盤。 創造者を知り、信ずることの恵み、伝道者の書12章1節、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」。

②実例、
マルコ10章6節、「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。」
黙示録2章4節、「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」
聖歌601番4節、「はじめの日とかわりなきこの愛をば受けませ」。

(2)聖書全体を貫く荒野、そして私たちにとっての荒野は。
①バフテスマのヨハネが活動していたヨルダンの荒野、第二の出エジプトとしてのバビロンからの帰還、
出エジプトに続く荒野での40年、さらにさかのぼりさかのぼって、エヂンの園。そこで第一のアダムの敗北、しかし今荒野の誘惑において第二のアダム・主イエスが勝利。アダム・人間の本来の姿へと回復の道、参照ロ−マ5章12節以下。
 
 ②マタイ11章28節だけでなく、29、30節も。参照16章24節。
ボンヘッハァ−のことば。
「この点が、あらゆる宗教との決定的な相違点である。人間がもつ宗教は、人間が困窮に陥ったときに、この世において神の力を示す。ところがその場合の神とは、人間の陥っている境遇に、無理やり引き寄せられた『神』にほかならない。しかし聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。そしてこの苦しむ神こそが、人間に助けを与えることができる神なのである。その限りにおいて、〈この世が成人となる〉ということは、〈誤った神概念が一掃される〉ということであり、〈僕たちの目が解放され、その結果、この世の中で、『無力さ』によって『力』と『場所』とを獲得する聖書の神を見るようになる〉ということなのである」(『抵抗と信従』)。

(3)テレビ「おしん」の中で読まれた、与謝野晶子、『君死にたもふなかれ』。
イラク戦争を強硬に推し進めるアメリカ大統領など指導者の少なくない人々が、若きとき徴兵逃避をした人々だとの指摘。 ↑

苦難の僕・王の王、主の主。
マルコ10章45節、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」。
参照聖歌733『ゲッセマネにふす』3番
    「カルバリやまの 主をおもいなば
     わがくるしみは もののかずかわ
      十字架を負いて きみにしたがわん」