「善のために苦しむ」  Ⅰペテロ3章14−3章17節 

2013年5月27日
聖望キリスト教会 主日礼拝

Ⅰペテロ3章14−3章17節 「善のために苦しむ」

御父、御子、御霊、生ける三位一体なる神の御名を讃美します。
[1]序
(1)2013年4月28日の主日礼拝から1箇月、今朝5月26日再び皆様と共に主を礼拝し、みことばを味読・身読する恵みの機会を与えられており心より感謝いたします。

(2)皆様それぞれに1箇月恵みから恵みへの歩みを導かれた事実を覚えます。
4月3日に開始した岩崎淳兄との合作・童謡説教、今朝は童謡説教57「あの町この町」その3、続けて恵みの波紋が深まり広がり、感謝と励ましの個人的応答を毎日頂いています。

(3)今朝は、Ⅰペテロ3章14−3章17節、比較的短い箇所に焦点を絞ります。
的確に焦点を絞るため、手紙の大きな流れをもう一度確認いたします。
ペテロは、まず1章3−25節で神に召し出され新しく生まれたキリスト者・教会の生き方を大きなスケ−で美しく描いています。
続いて2章1節−3章13節で手紙の受取人たち各自が置かれた境遇の中で恵みを味わい、訓練を受け、戦い生きるあり方を提示。
そしていよいよこの手紙を執筆する直接の目的に触れ、火のような試練に直面する受信人たちに、神の恵みに固く立ち、苦しみの中生き抜く道を教え勧めをなして行くのです。

[2]3章13節−3章14節への移行
①まずペテロは、3章13節で「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」と、強烈な確信を告げます。
このペテロの確信は、10−12節に引用している旧約聖書詩篇34章12−16節)に根拠を持ちます。
 確かに、この世界は、混沌以外の何物でもないように見えます。
しかしこの世界に主なる神は目を注がれているのです。ペテロは,この恵みの事実を力強く断言し励ましています。人の目か神の目かです。

②格別に注目すべきは、3章13節から14節への移行の仕方です。
3章14節で、「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」と、ペテロは言い切ります。この主張は、決して無責任な放言などではない。
 「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5章10節)と、主イエスご自身の口からペテロが聞き、自らの営みを通してみことばが真実であることを悟り、今受信人たちに精魂を傾けて宣言しているのです。
 13節に見る確信は、信仰の歩みを営む上で大切な導きの光です。
しかし、この確信に立って生きて行く時、「こんなはずではない」とのことばが口を突いて出る事態に直面したり、頭ではどうしても納得できない現実にもぶつかります。
 その現実の中でもなお神のことばに心を注ぎ神を信頼を置き続けるか、それとも自分の願望や期待のように物事が進展しない事実のみにこだわり続けるか、ここに信仰生活の分かれ目があり、全生涯が左右されます。

[3]キリストを主としてあがめよ
 14節後半の「彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません」といささか消極的に命令を、15節の「むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい」との力強い勧めと共にペテロは与えています。
心の中でキリストを主としてあがめる。それは、私たちの生活と生涯の全領域でキリストが最終的発言力を持つ生き方です。
私たちの人生は、前後左右様々な圧迫や障害を受けます。諸勢力のぶつかり合う中で翻弄されているような私たちの日常生活です。この現実のまっただ中で、キリストを主とあがめ、キリストこそ真に主権を持つお方と確信して生きよ。この道です。

[4]集中と展開
(1)集中
 3章17節でペテロは、「「もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。」と大胆な宣言をなします。
これにより3章13節、「もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。」の意図をペテロは明白にします。
 そうです。善に熱心であれば、迫害に直面しない、大きな損失を被らない。
さらにたとい迫害に直面し大きな損失を被る事態に遭っても、結局誰も何も奪えない。
 この確信に立ち、世界に向かいキリストの恵みと主権を力強く弁明する特権と責任を、最初のⅠペテロの手紙の受信人たちは委ねられていたのです。
 今、ここで同じ手紙の受信人である私たちも、全く同じ特権と役割を委ねられています。

(2)展開
 苦しみ・苦悩の積極的な理解、聖書全体を一貫しています。その中でも代表的な箇所として、ヨハネ16章33節を一緒にお読みしましょう。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」