「宇都宮キリスト集会と私、そして後輩・先輩お二人の牧師からの手紙」その(2)

(5)2008年4月27日(日)宇都宮キリスト集会牧師就任式をめぐり敬愛するお二人からの手紙

①一人は、石川福音教会の重元清牧師から戦場での連絡文。

 沖縄における20年を越える年月、重元ご夫妻は私ども二人にとって常に主にある戦友。
 
「一方、勇気とは未知にかかわるものであるが、いわば拡がりは既に知られており、ただその深度と強度の点で未知なのである。後者つまり勇気の場合は、既知あるいは外延において既知になった未知の枠内において、強度の未知が存在する。この意味で、老年は勇気を要するのである。青少年はむしろ大胆の方に向いているのだから、老年は青少年のまだ知らないような大変な勇気を必要とするのである。僕にとって老年は・・・、年を重ねるにつれてますます激しく吹きつのって罷まない嵐に対抗することなのである。
不安に胸をしめつけられながら絶えず風向きを窺い、苦労を重ねてゆっくりと右に左に進んでいく船のように、あるいは、危険な場所にさしかかって速度をおとす自動車のように、その中を進んで行く。何となれば、老年においては(そしてそれが老年独自の性格なのであるが)進むにつれて既知が未知に吸い込まれていくからである。このように厳密に規定された意味において、老年とは、幼な児が全く無力のままに自然の脅威に晒されている、あの幼年期に戻ることである。老年固有の叡智というと、諦めの境地に達した・・・すぐに言われるが、それは余りにも安易なむしろ人を馬鹿にした考えであって、実際には,途轍もなく・・・経験をはちきれんばかりに積み込んで重く水中にのめりこんだ船を、暗礁と荒れ狂い泡をかむ激浪との間をぬって、慎重に、労苦に労苦を重ねて導いていく、苦悩にみちた老船長にこそそれは似ているのである」(『森有正全集』 14 145、146頁 『日記』1970年5月4日)」。

主の御名を賛美します。
宮村先生。牧師就任式、おめでとうございます。
先生から送られてきた「宇都宮キリスト集会と私」を読みながら、熱いものがこみ上げて、涙が止まらなくなりました。
 上の文章は、たまたま読んでいた、森有正の「老年」について書かれたものです。
「老年は、・・大変な勇気・・・」の所を読みながら、宮村先生の姿が浮かびあがってきたので、コピ−しました。(老年と語るのは失礼と思いつつ)。
 先生の勇気と冒険を主に感謝しつつ。」

②もう一人の方は、新しく出会い、しかし旧知のごとき先達・蓮見和男牧師からの愛の手紙。
 蓮見和雄先生との出会い、それは全く予期しない経過で実現したのです。
ことは、2003年4月、J.モルトマン博士が沖縄を訪問、一連の講演をなされたことに端を発するのです。
 蓮見先生は、モルトマン先生の通訳として、やはり優れた神学者である幸恵奥様とご一緒にモルトマン先生に同行なさったのです。

 ではモルトマン先生がなぜ沖縄を訪問することになったのか、またどんなことを語ったのか。モルトマンの沖縄への旅の記録集、新教コイノニアVOL.22号『人類に希望はあるか 21世紀沖縄への提言』(2005年、新教出版)に、その消息を見出すことが出来ます。
 その中で、蓮見先生は、沖縄の篤信の信徒から先生のところに届いた一通の手紙がすべての始まりであると、明らかにされています。

「2001年四月、モルトマン七十五歳誕生の記念タ−タングがドイツのバ−トボルであって、帰ってきたばかりの時でした。・・・モルトマンを沖縄に招聘したいとの切なる願いでした。」(93頁)。

 蓮見先生の最初の応答は、
「正直言って、半信半疑でした。というのは、世界的学者を招聘するには、あるキリスト教の団体や大学、教会を予想していたので、全く個人の願いに、私はとまどいました(強線、宮村)。『何とかして断りたい』というのが、偽らない気持ちでした」(同頁)。

偽りのない気持ちから、率直な返書が伝えられました。
「すぐに、『それは難しい。モルトマンはもう七十五歳だし、足がお悪いし、持病のゼンソクもお持ちだ。それに日本へは、もう五回も来ている』という意味の返事」(同頁)。

これで一巻の終わりか。
おっとどっこいなのです。

「そこにもう一度手紙がきました。私の心は、少し動きました。モルトマン自身に聞いてみなければ、私が勝手に判断はできない(強線宮村)と考え・・・野島牧師に、長嶺さんの二通の手紙のコピ−とモルトマンのところに行ってほしいとの依頼状を出し、同時に、モルトマンに長嶺さんからの依頼と、野島牧師が行くからとの手紙」(同頁)を蓮見先生は出されたのです。
「分をわきまえ、分を尽くすとは、このような言動なのだな」、胸にすとんと。

「沖縄の心とモルトマンの心とが通じあいました。モルトマンは快諾し、諸教会合同の招聘委員会をつくってほしいと手紙で言ってきました」(93、94頁)。

沖縄キリスト教書店でこの記録集をたまたま立ち読みしていたとき、驚いたことに蓮見先生が私のような者について記しておられるのに、気づいたのです。
「英語の通訳者は、前もってきめていた方が、急に出来なくなり、急遽、宮村牧師が選ばれました。それなのに、宮村牧師のすばやい、しかも的確に通訳に舌を巻きました。突然頼まれて、これだけできるのは、ただ者ではないと。・・・」(95頁)。
「・・・モルトマン神学は沖縄の地に、血となり肉となって、実を結ばせるでしょう。
長嶺さんの祈り、饒平名牧師の組織力、村椿牧師のドイツ語力、宮村牧師の英語力、それらを支える、全教会の力が結集されたのだと思います。・・・」(95頁)。

 私は、蓮見先生に手紙を書きました。
「あの通訳は、英語力によるのでなく、神学力によるものだ」と。
「一寸の虫にも五分の魂」の心意気で。

「私は、モルトマン先生が聖書ですべてのことを読まれているのと全く同じように(あの宗教改革者が指し示してくださるように、聖書を恵みのメガネとして万物を直視する道)、聖書で沖縄を読み続けるべく歩んできた。それでモルトマン先生が話される前から、何を話されるか承知していたのです。すくなくもその大意を。それで先生の話を聞きながらは、ひたすら細部に意を注ぎ、自分を捨て、モルトマン先生のことばの下に徹底的に自分を置く(−アンダ−・スタンド−)ことを務めました。
 その意味で、英語力ではなく、神学力だ」と。

 蓮見先生は、この無鉄砲な発言を受け止めてくださったのです。
「あの通訳は、単に英語力でできるものでない。私の今までの経験から、そう断言できる」。

こうして、海の隔てを越えて手紙のやり取りを重ねたのです。
さらにお二人の先輩神学牧会者・牧会神学者を訪問する機会すら実現。
 このような背景から、宇都宮キリスト集会牧師就任式にあたり、お心のこもった便りを書き送ってくださったのです。

「就任式のお知らせをいただいて、びっくりしています。
なぜかという,四月五日(土)私は、前々からかかわっていた宇都宮の「さつき幼稚園」(すずめの宮下車)に行ったのです。
 その幼稚園の落成式、学校法人になって初の開演式があったのです。
 実は前日から行ってホテルに泊まりました。
 朝テレビをつけると、キリスト教の番組をやっていました。中々よい番組で途中かでしたが、終わりまで見ました。
 「峰町キリスト教会」といっているではありませんか。
 私は一つの教会で、テレビの番組をもつことにびっくりしていたら、その日の落成式に、最初に独唱して下さった下村洋子さんは、ずい分前から存じていたのですが、そのご夫妻が峰町教会の会員。
 工事を請負った建築者も峰町の教会の人。
 一度この峰町の教会に行ってみたいと思っていたら、就任式の司式が峰町の牧師(宮村記、同教会の安食牧師が、宇都宮キリスト集会牧師就任式の司式という、まさに火中の栗を拾ってくださったのです。それで式の案内にお名前を心からの感謝をもって記したのです。)。
それに下村さんの名も見えるではありませんか(就任式での独唱者として)。

 就任式にとんでゆきたい気持ちですが、日曜日は、世田谷千歳教会の礼拝とその後も何かとあって、どうしてもでられません。
 残念です。
                     蓮見和雄

   宮村武夫様                              」

 蓮見ご夫妻訪問において、蓮見先生が21世紀において意を注ぐ課題として、沖縄、イスラム、そして朝祷会と明示なさったと重元先生に報告したところ、
重元牧師からのメ−ルには、
「 宮村先生へ
 蓮見先生の『朝祷会』発言は、目が洗われる感じがしますね。・・・」と。

 キリストにあっても、友は友を呼びます。感謝。