ルカの福音書身読の手引き・その9

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

「悔い改めにふさわしい実」
ルカの福音書3章1節〜14節

[1]序 
今朝は、ルカの福音書3章に進みます。1,2章から3章へ一つの節を通過し、洗礼者ヨハネの公の宣教活動を描く箇所です。ヨハネの宣教は、四つの福音書いずれにおいても大切な位置を占めています(マタイ3章1節以下、マルコ1章1節以下、ヨハネ1章6節以下)。ヨハネは旧約から新約への橋渡しの役割を果たしています(16章16節)。ルカは時代背景を描き、2章1節に見た皇帝アウグストの継承者、皇帝テベリリオの治世の第十五年(紀元28年前後)と明らかにし、パレスチナ地方の政治的状況また宗教的な指導者についも述べています(1,2節)。

[2]「預言者イザヤのことばの書にかいてあるとおりに」(1〜6節)
(1)ルカは直接の時代的背景だけでなく、マルコの福音書1章3節以下と同様、イザヤ40章3節を引用して神の救いの歴史の流れに意を注いでいます。特にイザヤ書40章4,5節をも引用、6節で「こうして、あらゆる人が神の救いを見るようになる」ことを強調しています。これは、シメオンのことば(2章30節以下)にすでに示されていたところで、主イエスの福音の中心に触れます(ロマ1章16節、ガラテヤ3章26〜29節参照)。様々な人間が建てあげる差別を越えて、主イエスにある救いにすべての人が招かれています。

(2)「罪が赦されるための悔い改めに基づくパプテスマ」(3節)。
 マタイ3章2節、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」を注意。またルカ3章16節からも明らかなように、ヨハネの宣教の中心、土台は、主イエスご自身を指し示すことであり、主イエスにおいて明らかにされている神のあわれみの事実です。神の恵みのゆえに贖いがなされの罪の赦しの道が開かれ、悔い改めの呼び掛けがなされいます。

[3]「悔い改めにふさわしい実」(7〜14節)
(1)「言い始めてはいけません」
①「群衆に言った」(7節)、しかし特にパリサイ人やサドカイ人の偽善に対して(マタイ3章7〜10節参照)。「われわれの先祖は   アブラハムだ」(8節)と言ってはならないと指摘しています。
(イ)創世記17章8節参照。特別なアブラハムの子孫である主イ      エスにある救い、ガラテヤ3章16節参照。
(ロ)アブラハムの信仰に従う人々こそ、アブラハムの子孫。ロマ      4章16節参照。 

②恵みのゆえに、主なる神は軽視されたり無視されたりしている人々   からも神の民を起こされるのです(8節後半)。

(2)「悔い改めにふさわしい実」
 当時の人々が重視していた祈り、断食とほどこし(マタイ6章1節以下)だけではなく、それぞれの実生活の中で、モーセ十戒、第2の板の指し示すところに従い生きること。愛と公正こそ期待されている実です。
①11節、あわれみ、愛の行為、Ⅱコリント9章7節、ヘブル13章16節

②12節、職業的な義務、個別の義務を果たすこと。

③14節、立場や力を不正に用いないように。

[4]結び
(1)神の約束は必ず成就することを明らかにしています。イザヤの預言やるかルカ1,2章に見る預言が3章1節以下で現実となっていることを描いています。

(2)神のあわれみによる罪の赦しのわざを受け入れ、自己中心の生き方から、神のご真実を仰ぎ生きること、これが悔い改めです。そして悔い改めにふさわし実とは、日常生活の中で悪から離れ、神の御心に従うこと。それぞれの職業を通して、主なる神の助けに支えられ悔い改めにふさわし実を結ぶ道が開かれています。