「時と場所」『礼拝の生活』再考その111

1972年12月17日

『礼拝の生活』111号
 
(巻頭言)「時と場所」 
 今年も残り少なくなりました。この年も、先日の総選挙の結果を含めて、実に種々様々なことがありました。歴史の流れの中に生かされている者としての自覚を深めさせられる日々です。確かに、私たちは、時と場所の制約の中でのみ生きることを可能とされています。
ところで、時と場所と一口で言っても、この両者と私たちの係わり方は一様でないことを聖書を通して教えられています。

私たちにとって場所は決して決定的な制約とはなりません。
イスラエルの民は、エジプトにいても、荒野を旅していても、また約束の国パレスチナに入国しても、さらにバビロンの地に捕囚の身となっていても、それぞれの場所によって決定的な影響を受けることなく、唯一の生ける真の神を、私たちの神と常に信じ告白する大きな責任と特権を与えられていました。
イスラエルの神は、一定の場所に縛られる偶像とは全く違い、実に天と地を創造され、これをみ手の中に支配される神です。イスラエルの民にとって、どこに住むかは、決定的なことではなかったと言えます。
 
しかし、時の制約は決定的です。無目的に生き、消えていく、あるいは無目的に繰り返しがなされるとの歴史の見方とは全く違い、唯一の生ける真の神がすべての歴史を目的もってご統治し導かれるとの信仰に立つゆえに、時はまさに決定的に尊いものです。
決して繰り返しではなく、神の終局的な目標に向かって一刻一刻意味深い進展をなしているのです。

時と場所、普段それ程大きな課題と見えなくとも、最も大切な事柄です。

このような[場所]についての理解は、青梅から沖縄への移住、さらに沖縄から関東への移住の中で、それなりの助となり役割を果しました。

さらに地方と地域の違いに敏感になり、中央と地方の構図は、根本的に問題だとの確信の基盤となっています。