御霊に導かれて『礼拝の生活』再考その80

1972年3月12日
『礼拝の生活』80号

(巻頭言)「さらに、一歩」
先週、私たちは、教会の小ささと大きさについて考えました。そのとき、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4章6節)の意味を体得することの必要性について触れました。

ここで、もう少し、この聖句を味わいます。
私たちが、何らかの錯覚とらわれずに自己の姿を見るならば、また私たちが置かれている状況の激しさを自覚するならば、私たちは、「小さな群れ」としての自己に気づかざるを得ないのです。私たちは、「権力」や「能力」によって何事かを行おうとすることの危険性を教えられます。教会としても、個人としても、「権力」や「能力」にた頼らないことを、ますます深く学んでいくべきです。
熱狂主義者ではなく、常にさめた目と心をもって、自己の弱さをありのままに認めたいのです。

しかし、今、教会としても、個人としても、私たちは、さらに一歩踏み出すべきときが満ちていると確信します。
それは、「わたしの霊によって」と積極的に示されている神の民の生き方です。さめた目と心をもって、自らの弱さと小ささを自覚すればする程、そのような者の上に約束されている神の油注ぎに信頼して生きる生き方を、今、本当に体得すべき時なのではないかと痛感させられます
私たちは、主の霊によって生かされ、生活するのでないならば、結局、みじめな「権力」や「能力」に頼っているのです。
さらに一歩、私たちは踏み出すべきときです。キリストの教会として力強くあかしをする群れとして生きるために。主の霊によって。

1972年3月から40年、あの時自覚した道を、青梅、沖縄、そして今再び関東で歩むように導かれている事実を覚えます。
一言で言えば、ガラテヤ5章25節の勧めへの私自身の思いをさえ越えた応答です。
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」

 1986年4月から、それなりに安定した生活から沖縄の現実へ。会堂建築により基盤が備えられて程なくしてから躁鬱の年月。その中でなお教会は成長、新しい牧会者を迎え将来に備えることができたと自他共に考えたときに、思わぬ事態が生じ首里福音教会を離れ、日本福音キリスト教会連合を退く。
 牧師給と牧師館に守られる生活から離れる中での脳梗塞発症。
 
この一連の歩みを通し一歩一歩、まさに「わたしの霊によって」と積極的に示されている神の民の生き方、広い所へ導きが続いたのです。
「主は私を広い所に連れ出し、私を助け出された。
 主が私を喜びとされたから。」(詩篇18篇19節)
 

今、喜びカタツムリの歩みこそ、あれから40年の歩みの導きの末、主にある積極的な営みと受け止めています。

ゴルゴダ
  担われ進む カタツムリ

イザヤ書46章3.4節
わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれて おり、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う 。
わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。

ゴルゴダ
  担いて歩む カタツムリ

マタイ11章28.30節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人 は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って 、
わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです。