『一日は千年,千年は一日のごとく』  Ⅱペテロ3章8-13節

『一日は千年,千年は一日のごとく』
 Ⅱペテロ3章8-13節

25年間、沖縄での生活の中心は、 首里福音教会の一員としての歩み。その中で忘れられない思い出の一つは、越年礼拝です。
 12月31日から1月1日へ、年を越し新年を迎える越年礼拝は、青梅キリスト教会時代から、個人的にも好きなプログラムでした、教会員の家族を個人的に招く絶好の機会と理解し実践しました。
 特に21世紀を迎えた年の越年礼拝記憶に残ります。
そして79歳の今、日常生活・一日一日の重さ、味わいが重要な課題になっています。

[1]序
(1)新しい世紀を迎える意味を,聖書が約束する永遠の希望の視点から味わい,私たちの日々の生活・生涯の意味,尊さを確認したいとの願い,その目的をもって,私たちはこの越年礼拝・祈祷会を計画しました.そして首里福音教会の会員や客員だけではなく,私たちの家族,友人,知人をお誘いしたのです.それには,それなりの理由があります.
 
今,ここで私たちが聖書から学ぼうしている事柄は,ただキリスト者・教会にとってだけ,意味のあることではない.一日とか千年とかは,すべての人にとって,最も身近な課題なのですから.私たちが,人間として生活しているなかで,「一日」ということを未だかって一度たりとも意識したことも考えたこともない,そのような人はまずいないと断言します.
 また2000年から2001年という,文字どおりの越年にあたって,百年単位の世紀だけでなく,ミレニアム(千年)ということばが心をよぎった,その単語を聞いたり,読んだりしたことを覚えていると言う方も少なくないに違いありません.

(2)先程お読みしました,Ⅱペテロ3章8節から13節,特に8節には,一日と千年と,その両方のことばが登場しています.しかも,とても印象的なむずび方で,著者は書き記しています.そうです.
 「一日は千年のようであり」
 「千年は一日のようです」
 と,60代の私でも,すぐ記憶できるような言い方です.
 限られた時間ですが,この意味について,Ⅱペテロ3章8節から13節さらには,ペテロの手紙 第二の文脈に注意しながら,その意味を探りたいのです.
その上で,この8節後半に明示している鍵(キーワード),「主の御前では」とのことばに意を注ぎます.その小さな営みを通して,聖書が時,時間,歴史,そうです,私の生活や生涯について,はっきり教えているメッセージを心に刻みたいのです.

[2]「一日は千年のようであり,千年は一日のようです.」
(1)前後関係・文脈
 まず8節から13節までの役割を確認したいのです.ここで著者は,4節に見る,「あざける者とも」(3節)のあざけりのことば,「キリストの来臨の約束はどこにあるのこか.先祖たちが眠ったときからこのかた,何事も創造の初めらのままではないか」に,惑わされたり,落胆させたりしないよう注意し,励ましています.さらに積極的に各自の生活・生涯の尊さを教えているのです.つまり,
 8節,見落としてはならい一事について.
9節,キリストの来臨が遅らされているのは,福音の宣教を通して救われる者が増し加えられるためであり,神の忍耐とあわれみと愛による.
10節,約束のときが遅いにとあせる必要がないばかりではない.約束の日・主の日は,必ず到来する.その事実を軽視し,まして無視して,怠惰(たいだ)になり,閉まりのない生活を送ってはならない.聖(きよ)い生き方を営み,敬虔な生涯をおくり(11節),「神の約束に従って,正義の住む新しい天と新しい地を待ち望」(13節)む.

(2)「一日は千年」
 旧約聖書詩篇の記者は,
 「まことに,あなたの目には,
  千年も,きのうのように過ぎ去り,
  夜回りのひとときのようです」(詩篇90篇4節)と,人間の命の短さを神の永遠性と対比させ,しっかり実態を見つめています.
私たちが今意を注いでいる,この聖書の箇所では,同じく「千年」を用いて,神の時間の物差しと人間のそれとを比較し,神の約束実現に対する人間の期待の性急(せいきゅう・まだかまだか)さを対比してします.その上で,まだかまだかと性急さに浮足立つかと思えば,一転して,「どうせまだだ」と,だらだらと目の前の一日を無駄にしている.しかしその無駄に過ごした一日は,実は千年にも匹敵する内容豊かな時なのだと著者ペテロは鮮明に語りかけています.

(3)「千年は一日」
 神のご計画,時間は人間の物差しで簡単に測り切れない.以下に見る,ハバククの預言のことばの通りです.
 「定められた時のために
  もうひとつの幻があるからだ.
  それは終わりの時に向かって急ぐ.
  人を欺くことはない.
  たとえ,遅くなっても,待っておれ.
  それは必ず来る,遅れることはない.」
ハバクク2章3節,新共同訳)
キリストの再臨がいつ来るかは,時間の統治者,歴史の主なる神の御手にあることです.人間の物差しや計算で簡単に測定できるような事柄ではないのです.新約聖書の最初の書,マタイの福音書の1章1節には,「アブラハムの子孫,ダビデの子孫,イエス・キリスト系図」とあります.確かに,私たちと主イエス受肉・ご生涯と私たちの間には,二千年の時間的隔たりがあります.
しかし同時に,主イエスダビデとの間の隔たりも,約千年です.さらに,ダビデアブラハムの間も千年です.そうです.アブラハムへの約束から二千年,ダビデに対する約束からでも,千年経過した後に,主イエスにあって,彼らの対する約束は成就したのです.
 私たちの時計は,普通短針・秒針と長針です.あえて言えば,世紀針やミレニアム針で,物事を見る必要があるのです.悠々(ゆうゆう)とした心持ち必ずなるとの確信,希望と忍耐(ローマ8章25節,忍望)をもって.「遅くなっても,遅れることはない」のですから.

[3]「主の御前では」
 私たちが,このⅡペテロ3章8節を,どれだけ正しく,深く,豊かに理解できるか,それは,私たちがどれだけ注意深く,「主の御前では」ということば,その背後にある事実に心を向けるかにかかっています.
さらに言えば,私たちの一日,私たちの生活.生涯,そして世界・宇宙の意味についても,同じです.「主の御前」が,鍵なのです.この一事に集中します.
(1)聖書と時,時間,歴史(参照,宇田進,「終末論」,『新聖書              辞典』,いのちのことば社
 私たちが生まれ,育った宗教環境においては,総じて歴史に無関心であると言ってよいでしょう.歴史は,川の流れのように絶え間無く過ぎ去って行く.歴史には初めもなく,終わりもない.いっさいがぐるり,ぐるりと円環的に巡り(東京の山手線のように)限りない変化と流転(るてん).人間はその繰り返しの定めにしかっり組込めれてしまっている.人間にできることと言えば,この無意味を直感することしかない.この悲観的,宿命的な歴史観こそ,すべてのものが回帰する時間の円環(ぐるりぐるりの流れ)から抜け出し,時間の彼方(かなた),無時間の永遠のうちにのみある救いを見出す道だと言うのです.伝道者の書1章1-14節において,代弁されている通りです.
 聖書は,こうした考えと全く対照的な歴史の見方を明示しています.旧約聖書の最初の頁の最初に,「初めに,神が天と地を創造した」(創世記1章1節)とあります.この世界は,生ける神によって創造されたのです.「初めに」とあるように,時,歴史は,神の創造の御業であり,創造者なる神との関係,そうです,「主の御前」 において重視されています.歴史は,神の目的と計画が展開される場なのです.歴史のことごとは,偶然でも,ばらばらの砂粒のようなものではなく,歴史は全体として,一貫した,統一を持つのです.ですから,「千年は一日のごとく」と大きく見ることができるのであり,見なければならないのです.歴史において起こるすべてのことは神の主権のもとにあり.意味と方向を持つと聖書は,明確に教えています.

(2)主イエス,歴史の中心.
 私たちは意識するとせざるとにかかわらず,2000年から2001年への越年というとき,イエスが歴史の中心である事実に触れています.クリスマスのとき特別に記念したように,主イエスは,待ち望ぞまれたメシア・救い主です(ガラテヤ4章4節).天地万物の中心です.
伊江島キャンプで毎回タッチューの頂上で読む聖書の箇所を,今,ここでもお読みします.
  「そこには,ギリシャ人とユダヤ人,割礼の有無,未開人,スクテヤ人,奴隷と自由人というような区別はありません.キリストがすべてであり,すべてのうちにおられるのです」(コロサイ3章11節).
 主イエスの誕生,それは待ち望まれたメシヤの到来です.主イエスのご生涯と十字架,そして復活において,「終わりのとき」は,すでに始まっているのです.「今が終わりのとき」(Ⅰヨハネ2章18節)との明確の自覚を持って,ヨハネは,今主日礼拝で味わっているヨハネの手紙において書き記しています.
しかし,それだけはない.確かに終わりの幕開けは告げられたのです。しかしその完全な成就は,なお未来であることをも新約聖書ははっきり教えています.主イエスにあって,「すでに」と「いまだ・やがて必ず」と,二重の意味で,神のご統治を明らかにしています.
確かに,主イエスの十字架,復活と召天により「すでに」成就された恵みの時.同時に「いまだ」現実にはなっていない,しかし「やがて必ず」主イエスのご再臨,新天新地時において,成就すると約束されている希望の時.「主の御前にあって」,この二つの時の間に生かされている,それが「人間・私」なのです.
 「私たちの時は,御手のなかにあります」(詩篇31篇16節)と信じ告白し,希望に満たされ,喜ぶつつ忍耐の限りをつくし,持ち場・立場で分を弁(わきま)え,分を果たす.これが世々のキリスト者・教会の歩みであり,年を越え,世紀を越えて,私たちの歩みなのです.,

(3)日々そして生涯と聖霊ご自身,歴史と聖霊ご自身.
 救い主イエスの誕生,生涯と十字架,そして復活.驚くばかりの恵みです.全く同じく聖霊ご自身は,約束のメシアの時代到来のしるしです(ヨエル2章28-32節,使徒2章17-38節).聖霊ご自身は,来るべきメシアの上にとどまり(イザヤ11章11章1,2節,61章1,2節),メシアの死と復活,ご昇天を通して,キリスト者・教会にも与えられ.注がれているのです.これこそ,ペテンコステのメッセージです(使徒2章1節以下).しかも聖霊ご自身のキリスト者・教会への注ぎは,来るべき神の国の完成の初穂(ローマ8章23節),前味,保証( コリント1章22節,エペソ1章13,14節)です.
そうです.聖霊ご自身は,主イエスと共に終末の初めの実(すでに)です.新天・新地(いまだ・やがて必ず)の目標へ向かう万物,そして私たちを整え,備えてくださるのです.

[4]結び
 最後に,日本の地で,主イエスのご再臨の希望を力強く宣べ伝えつつ,一日,一日を誠実に歩み続けた,私たちの先達の一人・内村鑑三のことばをご紹介します.

 「一日は一生である,善き一生がある如くに善き一日がある.悪(あし)き一生がある如く悪き一日がある,一日を短かき一生と見て之をゆるがせ(強調,鑑三)にしてはならない事が解る」(注)
「一日は千年」,一日一生」との鍵のことばの意味を聖霊ご自身の導きにより心のうちに味わい,新し年,新しい世紀,私の現実の生活・生涯において生かし,実を結ばして頂きたいのです.
この時を共に過ごせてことを感謝しつつ.

◆注.1918(大正7)年8月26日,57歳になった内村鑑三は,全国にわたるキリスト再臨運動のさなか,この日より「日々の生涯」を執筆を始め,『聖書之研究』219号(10月10日)に連載.上記の言葉は,『聖書之研究』220号の「日々の生涯」の文頭,9月26日の日誌の前に載せられたもの.
なお,「日々の生涯」は,1922(大正,鑑三62歳)年7月26日の日記において,「一日一生」と改題され,1930(昭和5年,鑑三70歳)年3月22日まで書き続けれられる.そして3月28日,鑑三は心臓病により死去.
 カルヴァンは,『キリスト教綱要』の序文,「ジョン・カルヴァンより読者の皆さんに」の最後で,アウガスティヌスの書簡より次のことばを引用し,印象深く結んでいます.全く同じ模範を,内村鑑三のうちにも見るわけで,私たちの平凡な歩みに励ましを受けます.
 
 「わたしは進歩しつつ書き
  書きつつ進歩する人のひとりであることを告白する」

4月13日(金)ヨハネ13章の味い、その3 神田岩本町クリスチャントゥデイ事務所、 夕方歯科治療、泌尿科診断

4月13日(金)ヨハネ13章の味い、その3
神田岩本町クリスチャントゥデイ事務所、
夕方歯科治療、泌尿科診断

https://youtu.be/HNoGRVmdnms
    ヨハネ13:3