ピレモンへの手紙味読・身読 その5 「ピレモンへの手紙に見る信仰共同体」

ピレモンへの手紙味読・身読 その5

「ピレモンへの手紙に見る信仰共同体」
[1]序
(1)3回にわたり味わって来ましたピレモンへの手紙.パウロがピレモンという個人に手紙を書いているように見えるけれど,実は2節で見たように,「あなたの家にある教会へ」と,単に個人宛の手紙ではなく,信仰共同体・教会に向けての手紙.

(2)3回目に意を注いだアリスタルコも,「兄弟・姉妹」,「同労者」ということばが示すように,信仰共同体の一員.そのような彼の生き方を明示する、「よろしく」とのことばを,パウロを通して、ピレモンの家の教会へ送っている事実は明白です.
 ピレモンへの手紙に,私たちはキリスト信仰共同体・教会の豊かな姿を垣間見ます、以下二つの点に限り,少し掘り下げたいのです。

[2]「あなたの家にある教会」
(1)「あなたの家」

(2)「教会」

[3]祈られ,祈る信仰共同体・教会
(1)4節,「私は,祈りのうちにあなたがたのことを覚え,いつも神に感謝しています」.

(2)22節,「あなたがたの祈りによって,私もあなたがたのところに行けることト思っています」.

[4]結び
(1)ピレモンの家にある教会

(2)ピレモンへの手紙の最後25節は,手紙の終わりであると同時に,手紙を受け取り,読んだ信仰共同体・教会にとっては,新たなる交わりの出発.どこに立ち進むのかを,ピレモンの家の教会の一同に明示.
「主イエス・キリストの恵みが,あなたがたの霊とともにありますように.」(25節).
 「主イエス・キリストの恵み」.これこそ,パウロが手紙を書き出すにあたり,彼のここを占めていたものです(3節).手紙を下記続けていた間も,今閉じるにあっても,そしてピレモンの家にある教会においても、1コリント15章10節を自らの告白とするパウロ自身の生活・生涯、そしてピレモンへの手紙を読む私たち各自にとっても。

ペンケン祈禱会の先輩・同志からのアッピール、今年も

ペンケン祈禱会の先輩・同志からのアッピール、今年も

★今年も、以下のようなアッピール文を、母校開成の有志が続けている祈祷会の同志・土肥由長先輩から、憲法記念日を記念して受け取りました。許可を頂き転載します。

憲法記念日
2017.5.3
拝啓 初夏の候、如何お過ごしでしょうか?
日本国憲法は施行70年を迎えました。
憲法第九条:日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力の威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。
この憲法のもとに70年も続いた平和日本を子や孫の代まで引き継いで行きたいものです。テロは止まず、不安定さが増す今こそ憲法九条の存在感があります。
諸兄のご健勝をお祈り致します。
                 敬具
東大農化35有志
土肥由長 林和也 平田道正
西久保寿彦 小川欽也 櫻井成
東大薬学35有志 小原正明

ピレモンへの手紙味読・身読 その1 聖書・神から人への手紙―パウロの手紙―ピレモンへの手紙 [1]パウロの手紙

ピレモンへの手紙味読・身読 その1

聖書・神から人への手紙―パウロの手紙―ピレモンへの手紙
[1]パウロの手紙
発信人と受信人と二つの焦点を持つ手紙は、神と人の二つの焦点を持つ神と人との契約関係・呼応関係を説き明かすため、適した表現方法。

[2]ピレモンへの手紙の場合
◆発信人、「キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから」
(1)「キリスト・イエスの囚人であるパウロ
 「・・・の」、パウロが誰に所属するかを示す。手紙が単なる個人的なものではなく、手紙を受け取った者がそれに従う義務を生ずることを示唆。
 「囚人」、ローマの権力の下でローマの囚人であるのに、より根源的な関係をパウロは深く洞察しています。

(2)「および兄弟テモテから」
 「兄弟」、主なる神を「アバ、父よ」(ローマ8章15節、ガラテヤ4章5、6節)と呼ぶことを許された者の間に与えられている恵みの関係、参照2節の「姉妹」。
 テモテは、パウロにとってだけでなく、またピレモンにとっても兄弟。さらに、この手紙の陰の主人公である逃亡奴隷オネシモも、「奴隷以上の者、すなわち愛する兄弟」。主イエスにあって、人間の築いたあらゆる差別の壁を越えて広がる関係。
 「キリストによって奴隷が自由人となり、また自由人がキリストのもとに隷属する者となって、両者が主にある兄弟どうしとして一つに結ばれあること、それが奴隷問題の原始キリスト教的な解決であった」(NTD新約聖書注解 8、パウロ小書簡、480頁)。

◆受信人、「私たちの愛する同労者ピレモンへ、また姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキボ、ならびにその家にある教会」
(1)「私たちの愛する同労者ピレモンへ」
 愛する者、神を父と呼ぶ愛を中心とした交わり、存在の喜び。
 同労者、神を主と呼ぶ使命を中心として交わり、誰でも自分一人では生きることが出来ない。誰でも、何も使命がない人はいない。

(2)「また姉妹アピアへ」
 ピレモンの妻、オネシモを受け入れるにあたり、妻・主婦としてアピアの役割、実権。
 アピア自身、ピレモンの妻としてだけでなく、彼女自身が自立して公の交わりの中で位置を与えられています。
(3)「私たちの戦友アルキボ」
 ピレモン、アルキボ夫妻の息子。
 「戦友」、参照ピリピ2章25節。

(4)「ならびにあなたの家にある教会
 福音が家族へ広がり行く様を新約聖書は明示。カイザリヤのコルネリオ(使徒11章14節)、ピリピのルデヤ(使徒16章15節)、看守(使徒16章31,34節)コリントのステパナ(Ⅰコリント1章16節)、エペソのアクラとプリスカ( コリント16章19節)など。
 「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」(マタイ18章19節).

[3]ピレモン10節
「獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。」
(1)10節。パウロはピレモンの立場を考慮し、細心の注意を払いつつ書き進めて来ました。しかしこの節でついにオネシモの名前を直接あげます。言わばオネシモ登場です。

(2)「獄中で生んだわが子オネシモ」
 9節まで、入念な準備をしておいて、いよいよ10節でパウロは用件を切りだすのです。この段になっても、パウロはなおも十分な注意を払っています。この事実は、以下に見る10節の元々の語順からも明白. 
私はお願いします あなたに ために 私の子
       その者 私は生んだ で 獄 オネシモ
 パウロは、9節に続き、私はあなたにお願いしますと繰り返し、ピレモンに対し大切な依頼があることを強調します。それは、「わが子」のことであるとパウロは切り出します。このパウロと一番密接な関係のある人物について、「(私が)獄中で生んだ」と説明し、最後に、それが「オネシモ」であるとパウロは明らかにします。この繊細な心配りの中に、パウロのオネシモに対する深い愛とピレモンに対する思いやりがどれほど深いのものであるか、私は正確に推し量ることができないほどです。
パウロの手紙すべては、まさにこの奥深い愛・パウロ自身が復活の主イエスから受けた愛から滲み出ていることば、そうです、聖書全体が神の繊細な愛の迸りです。

 パウロは、この段になっても、いきなりオネシモの名前を告げることをしていないのです。その代わりに、この人物とパウロがいかに親しい関係にあるかを示しつつ、獄中でパウロがキリスト信仰へ導き、彼は今や神の恵みにより新しく生まれかわった人間であると断言し、そこで初めて、パウロはオネシモの名を明らかにしているのです。

①「わが子」
 ラビ系ユダヤ教において律法を教える者と学ぶ者の関係は、単に教員と学生・生徒・児童の関係ではなく、師匠と弟子と言い表した方がふさわしく、さらに父子関係・イメージで表現されます(参照,私たちの間でも,「教え子」と言い方)。パウロは,時として自分自身と一地域教会との関係を、父と子の関係で表現します(Ⅰコリント4章14,15節,ガラテヤ4章19節)。またテモテを,、主にあって私の愛する、忠実な子」(Ⅰコリント4章17節)と呼びます。

②「獄中で生んだ」
 オネシモは、キリスト者ピレモンの奴隷でした。しかし彼自身は,キリストを個人的に信じてはおらず、ピレモンの家にある教会の一員ではなかったのです。なぜであるかは直接述べられていませんが(勿論,ピレモンはそのことを熟知)、ピレモンのもとから逃亡した後、どのような経過か私たちには不明ですが、オネシモはパウロのもとに来て滞在し、その間にキリスト信仰へ導かれたのです。 
 ですからパウロとオネシモの間は、単に比喩・たとえとして、父と子の関係で言い表されているだけではなく、それ以上です。実に現実の間柄です。パウロは、父親のように、奴隷であるオネシモのために執り成しているだけでなく、子を生むと同じ、いやそれ以上の現実の出来事(存在と思考において)としてキリスト信仰に導き,オネシモは新しいいのちにあずかる者となったのです(Ⅰコリント5章17節)。

◆実にこのオネシモは、彼と同じくパウロによりキリスト信仰へ導かれたピレモン(19節)の兄弟(16節)であるとさえパウロは指摘します。

③「オネシモ」
 オネシモ、「有用なる者・役に立つ者」(10節)を意味する。この名前は,当時奴隷の名前として珍しいものではなかったと言われます。しかしオネシモという名前は,ピレモンにとって一般的な奴隷の名前と言うだけではすまさず、間違いなく、「あのオネシモ」とその良からぬ思い出を想起させたにちがいありません.パウロがキリストにあってこれほど深い愛をもって一生懸命に執り成している人物、それがこともあろうに、あのオネシモとは。ピレモンも、彼の家族も、彼の家にある教会の兄姉も、どれほどの驚愕(きょうがく)をもって、この名を聞いたことでしょうか.

(3)「あなたにお願いしたいのです」
 ピレモン、彼の家族、彼の家にある教会の兄姉の驚愕のほどを思えば,パウロの「あなたにお願いしたいのです」との願いが、これまたどれほと真剣で、ただならぬ願いであったかは明白です。参照マタイ8章5節、マルコ5章23節。

[4]集中と展開
(1)集中
パウロは最後の最後まで気を抜かない。
私たちも土俵際が大切であることを忘れないように。

②主イエスご自身に名を呼ばれる幸い。
ヨハネ11章43節をその前後関係を大切にしっかりと受け止めたいのです。
 「そして,イエスはそう言われると,大声で叫ばれた.『ラザロ(あなたも私)よ出て来なさい.』」

(2)展開
いつでも、聖書のどの手紙を、いや聖書のどの箇所を読む場合も、

Ⅰこの箇所に何が書かれているのか、主題・What

Ⅱこの箇所でいかに書かれているのか、展開・How

Ⅲこの箇所で、このことをこのように、なぜ書いているのか、意図・Why

ⅠとⅡの段階を忠実掘り進めて、Ⅲの段階、つまり書き手の意図。心に触れる。
そのとき溢れるばかりの書き手の思いが注ぎ込まれ、私たちの心はうちに燃える経験をします(ルカ24章32節))。

これは、私たちが手紙を書く場合も全く同じ。
私たちは、まず書く意図・なぜ書くのかをはっきり自覚。
何をいかに書くか苦労しながら実行して行く。

「わたしは進歩しつつ書き
  書きつつ進歩する人の一人であることを告白する」。

ピレモンへの手紙味読・身読 その2 『生きて働く信仰の交わり』 ピレモン1ー7節

ピレモンへの手紙味読・身読 その2

『生きて働く信仰の交わり』
ピレモン1ー7節
[1]序
(1)パウロの手紙の中でも,一番短いピレモンへの手紙を味わいたいのです.主なる神の導きを求めつつ,次回は、ピレモン8ー20節、さらに3回目は、ピレモン21ー25節を味わいたく願っています.

(2)まず1,2節.そして6節に焦点を絞って味わいのです.

[1]ピレモンへの手紙
(1)発信人,「キリスト・イエスの囚人であるパウロ,および兄弟テモテから」
 「キリスト・イエスの囚人であるパウロ
 「および兄弟テモテから」

(2)受信人,「私たちの愛する同労者ピレモンへ,また姉妹アピヤ,私たちの戦友アルキボ、ならびにその家にある教会」
 「私たちの愛する同労者ピレモンへ」
 「また姉妹アピアへ」
 「私たちの戦友アルキボ」
 「ならびにあなたの家にある教会」
 福音が家族へ広がり行く様を,新約聖書は明示.カイザリヤのコルネリオ(使徒11章14節),ピリピのルデヤ(使徒16章15節),看守(使徒16章31,34節),コリントのステパナ( コリント1章16節).エペソのアクラとプリスカ( コリント16章19節)など.
 
[2]生きて働く信仰の交わり,6節
(1)「私たちの間でキリストのためになされているすべてのよい行ないをよく知ることによって」
 「私たちの間でキリストのためになされている」
 「キリストのために」は,信仰の交わりがどこへ向けて成長するのか,目的・目標を示します.信仰の交わりは,主イエスの再び来るとき,完全に現され,また認められる栄光を目標としています.ついにキリストにまで至ること望みつつ,パウロは祈ります.
 「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ,キリストのからだを建て上げるためであり,ついに,私たちがみな,信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し,完全におとなとなって,キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」(エペソ4章12,13節).
 主イエスとの交わりは,それぞれの持ち場,立場における実際の生活の場で接する人々に対する愛へとキリスト者・教会を導く.その愛の実践は,すべての善きこと,つまり主なる神のみこころは何かを的確に判断する土台の上に据えられて行きます.

(2)「すべての良い行ない」
 主なる神が信ずる人々の上に注ぎくださる,善きことを真に知る,認識に従った生活する.この良いこと,良い行ないについて理解するため,パウロの手紙の次の二つの箇所,ローマ12章2節とガラテヤ6章10節が助けを与えてくれます.

◆ローマ12章3節,「この世と調子を合わせてはいけません.むしろ,神のみこころは何か,すなわち,何が良いことで.神に受け入れられ,完全であるかをわきまえ知るために,心の一新によって自分を変えるなさい.」
良いこと,それは,神のみこころ,ご意志そのもの.良いか,悪いかの基準は,この世,つまり私たち人間にはないのです.ですから主イエスとの人格的な交わりが深まるにつれて,善悪を弁別する識別力もまして行くのです.ピレモンは,この事実をはっきりと悟り,主イエスにあって,真理の御霊に心を導かれつつ,日常生活のただなかで正しい判断なしていたのです.参照コロサイ1章9節.

◆ガラテヤ6章10節,「ですから,私たちは,機会のあるたびに,すべての人に対して,特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう」
 良いこと.それは知るだけでは十分ではないのです.実践する必要があります.実際に行なうことにより,本当に知ることになります.ピレモンは,機会を逃さなかったのです.まず,彼の家で集う,コロサイ教会の人々,そうです,「信仰の家族」の間で,良い行ないを実践したのです.そこで主イエスにある訓練を受け,社会のあらゆる分野で,積極的に,様々な(「すべての」)良い行ないを実践した,つまり,「すべての良い行ないをよく知」ったのです.すべてのことがそうであるように,良い行ないについても,家庭と教会は,苗床として,大切な大切な場であることをピレモンの実例は私たちに教えてくれています.
 良い行ないの勧め,さらにロマ15章2節, テラロニケ5章15節参照
 良い行ないの基準は,主なる神のみこころ,ご意志.私たちが聖霊の導きにより,何が神のみこころに適った良いことであるか判断力・識別力を与えられながら,良い行ないを,まず家庭や教会で実践し,社会生活の現場でなして行く.この恵みの事実を,パウロは主なる神を中心にして,以下のように明確に教えています.
 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は,キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです.」(ピリピ1章6節).参照ロマ8章28節.

 「よく知ることによって」
 ここでは,単に知るではなく,「よく知る」と強調を含む単語をパウロは用いています.この点をめぐるパウロの祈り,参照ピリピ1章9節.

(3)「あなの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように」
 「あなたの信仰の交わり」
「交わり」と訳している単語は,ピリピ1章5節では,「福音を広めることにあずか」とあるように,「あずかる」,参与の意味があります.主イエスにある救いの御業へ参与させられ,ぶどうの木とぶどうの枝(ヨハネ15章5節)のように真の交わりを与えられているのです.
信仰の交わりは,単なる仲良しクラブではない.キリスト信仰を分かち合い,キリストにある救いのご計画に参与させていただき,絶えず成長し,実を結ばせていただく交わりです.信仰の戦いを戦う「戦友」(2節)の交わりです.

 「生きて働くものとなりますように」
 パウロはピレモンに手紙を書くだけでなく,彼のため祈ります.祈るだけでなく,手紙を書くのです.ピレモンへの手紙は,この手紙と祈りの密接な,一体となっている関係をよく示しています.その中で,ピレモンが信仰生活において,絶えず進歩し,成長するように,ひとあし,ひとあしの歩みのため,パウロは祈っているのです.参照ピリピ1章8ー11節. 

[3]私たちの主日礼拝の頂点・クライマッコスである,頌栄,祝祷の意味を改めて確認したいのです.
 父,御子,御霊なる三位一体なる神をほめ歌う,頌栄.これこそ,私たちの礼拝の最高潮です.礼拝の中心です.
 その中で,私たちは,「主イエス・キリストの恵み,神の愛,聖霊の交わりが,あなたがたすべてとともにありますように」( コリント13章13節)に基づく,祝祷をもって礼拝を閉じるのです.三位一体なる神と,主イエス・キリストの恵み,父なる神の愛,そして聖霊の交わりにより堅く結ばれた礼拝の民,私たち.
 
[4]集中と展開
今、聖霊の交わり」に入れられているからこそ,「信仰の交わり」が「生きて働き」,「強められ」,「力を発揮し」,「活発になる」のです.キリスト信仰の歩みは,そのはじめから,完成へいたるまで,その途上のすべてが,徹底的に聖霊ご自身の導きによるのです.まさに,「聖霊の交わり」.心をこめて祈り,讃美しましょう.そしてそれぞれの持ち場,立場で,今週も礼拝の民として生かされるのです.

ピレモンへの手紙味読・身読 その3 『私がそれを支払います』 ピレモン8ー20節

ピレモンへの手紙味読・身読 その3

『私がそれを支払います』
ピレモン8ー20節
[1]序
(1)ピレモン8ー20節の箇所,特に10節,16節,そして19節に注意。
次回は、21ー25節の箇所を,「アリスタルコ,よろしくに生きる人」との主題で。

(2)まずピレモン10,16節,そして19節について.

[2]10,16節
(1)10節
 「獄中で生んだわが子オネシモ」
 9節まで,入念な準備をしておいて,いよいよ10節でパウロは用件を明らかにしますが,この段になっても,パウロはなおも十分な注意を払っています,
 パウロは,9節に続き,私はあなたにお願いしますと繰り返し,ピレモンに対し大切な依頼があることを強調します.それは,「わが子」のことであるとパウロは切り出します.このパウロと一番密接な関係のある人物について,「(私が)獄中で生んだ」と説明し,最後に,それが「オネシモ」であるとパウロは明らかにします.この繊細な心配りの中に,パウロのオネシモに対する深い愛と,ピレモンに対する思いやりがどれほどのものであるか,私たちは推し量ることができます.
 パウロは,この段になっても,いきなりオネシモの名前を告げることをしていないのです.その代わりに,この人物とパウロがいかに親しい関係にあるかを示しつつ,獄中でパウロがキリスト信仰へ導き,彼は今や神の恵みにより新しく生まれかわった人間であると断言し,そこで初めて,パウロはオネシモの名を明らかにしているのです.
◆「わが子」
 パウロは,時として,自分自身と一地域教会との関係を,父と子の関係で表現します( コリント4章14,15節,ガラテヤ4章19節).またテモテを,「主にあって私の愛する,忠実な子」( コリント4章17節)と呼びます.

◆「獄中で生んだ」
 オネシモは,キリスト者ピレモンの奴隷ではあったのですが,彼自身は,キリストを個人的に信じてはおらず,ピレモンの家にある教会の一員ではなかったのです.なぜであるかは直接述べられていませんが(勿論,ピレモンはそのことを熟知),ピレモンのもとから逃亡した後,どのような経過か私たちには不明ですが,オネシモはパウロにもとに来て滞在し,その間にキリスト信仰へ導かれたのです. 
 ですからパウロとオネシモの間は,単に比喩・たとえとして,父と子の関係で言い表されいるだけではないのです.それ以上です.実に現実の間柄です.パウロは,父親のように,奴隷であるオネシモのために執り成しているだけでなく,子を生むと同じ,いやそれ以上の現実の出来事(存在と思考において)として,キリスト信仰に導き,オネシモは新しいいのちにあずかる者となったのです( コリント5章17節).

◆「オネシモ」
 オネシモ,「有用なる者・役に立つ者」(10節)を意味する,この名前は,当時奴隷の名前として珍しいものではなかったと言われます.しかしオネシモという名前は,ピレモンにとって一般的な奴隷の名前と言うだけではすまず,間違いなく,「あのオネシモ」とその良からぬ思い出を想起させたにちがいありません.パウロがキリストにあって,これほど深い愛をもって一生懸命に執り成している人物.それがこともあろうに,あのオネシモとは.ピレモンも,彼の家族も,彼の家にある教会の兄姉も,どれほどの驚愕(きょうがく)をもって,この名を聞いたことでしょうか.
 「あなたにお願いしたいのです」
 ピレモン,彼の家族,彼の家にある教会の兄姉の驚きのほどを思えば,パウロの「あなたにお願いしたいのです」との願いが,これまたどれほと真剣で,ただならぬ願いであったかは,明白です.

(2)16節
ここで直接,「奴隷」という言葉が登場.
 オネシモという個人の名前と存在がどんなに重みを持つか,私たちは十分味わって来ました.そのような重みを持つ,多数の個人の集合,また彼らを堅く縛りつける「奴隷制度」との関係でも,「奴隷」といとう言葉,「どれい」という響きは,無比の実態を示すものとして,私たちに迫って来ます.
 16節は,手紙という文章様式上からも,またパウロの信仰・思考展開の上からも,密度の濃い味わい深い文章です.
 「もはや奴隷としてではなく,奴隷以上の者,すなわち愛する兄弟としてです.」
 ピレモンとオネシモの関係.かっての関係と今のそれとの鋭い対比.この事実を,パウロは思いを尽くし,知恵を尽くし,何よりも真実をもって書き進めます.
◆「もはや奴隷としてでなく」.
 ここで,初めて「奴隷」という単語が登場します.私たちは,パウロが「オネシモ」ということばを,9,10節に至って,「むしろ愛によって,あなたにお願いしたいと思います.年老いて,今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが,獄中で生んだオネシモのことを,あなたにお願いしたいのです.」と,どれほどの深い配慮をもって,書いているか,書き刻んでいるかを見て来ました.それに勝るとも劣らない,重い事実に耐える熟慮(じゅくりょ)と決意をもって,今,「奴隷」と言う言葉を口に出しているのです.それは,オネシモの存在,生活と生涯を押さえ付けている事実.ローマ社会を根底で特徴づけている制度に,パウロは直面し,対決しているのです.
 しかも,その重いことば・事実を,「もはや・・・としてでなく」と,主イエスにある恵みの事実のゆえに,パウロはこれに打ち勝ち,乗り越えて行く.そう勝利を明言するのです.
 「奴隷以上の者,すなわち,愛する兄弟として」.
◆「奴隷以上の者」
 「奴隷」でなく,「奴隷以上の者」・「奴隷を越えた者」・「奴隷に勝る者」とパウロは鋭い対比を示します.「もはや・・・ではなく」と,今まで,いや今も絶対的な事実である「奴隷」,奴隷制度を,パウロはそれ以上のものを示し,否定しているのです.

◆「愛する兄弟として」
 しかもパウロは,否定しているだけではない.ただ「奴隷以上の者」と言っているだけはない.「愛する兄弟」と,驚くべき,主イエスにある,新し関係,福音の内実を提示するのです.そうです.オネシモにおいて,「だれでもキリストのうちにあるなら,その人は新しく造られた者です.古いものは過ぎ去って,すべてが新しくなりました.」( コリント5章17節)が,まさに現実になっているのです.
 「特に私にとってそうですが,あなたにとってなおさらのこと」

◆「特に私にとってそうですが」
 「愛する兄弟」,主イエスにある恵みの事実を一般的なこととしてパウロは語ってはいないのです.(誰にとってよりも)「特に私にとって」と強調して.オネシモとパウロの関係が,主イエス・キリストにあって,「愛する兄弟」としてのそれであると実際的な生きた実例を通し,パウロは主イエスの恵みを提示しているです.
 「特に」と訳されていることばは,通常の最上級(私との間が一番だ)ではなく,絶対用法と言われる表現で,「どんなにかそれ以上」とでも訳すしかない(参照,前田訳,「まったくわたしにとってもそのとおりですが」,永井訳,「=殊(こと)に我にとりて=として」),昂揚(こうよう)・高まり強くなる,パウロの心の思いから滲み出る言い回しです.

◆「あなたにとってなおさらのこと」
 オネシモとパウロ自身との関係に根差しながら,パウロはピレモンとオネシモの関係へと進みます.しかもその進み方が尋常(じんじょう)ではありません.パウロは,主イエスにある,パウロとオネシモの関係を,「誰にとってよりも,まず第一私にとって」と比較級以上の最上級とも別の絶対用法を用い言い表そうとしている事実を見ましたが,ここではさらに一歩踏み込んで,「その私よりもさらにあなたにとっては」と,比較を越えた絶対,それを越えると,パウロは一見理屈にはあわないような言い方で,オネシモとピレモンの関係を強調しています.
◆「肉においても」
 ピレモンとアピヤの家庭を中心とした日常生活の実践においても.◆「主にあっても」
 主イエスのからだである,ピレモンの家に教会の一員・キリスト者としても,主人と奴隷の壁が乗り越えられているから,ピレモンとオネシモは,共に聖餐式にあずかることができるのです.また共に聖餐式にあずかることを通して,この恵みの事実をしっかり確認することが許されているのです.

[3]19節
ピレモンとオネシモの間に,パウロはさらに具体的な和解の成立を保証します.それは,パウロがオネシモに代わり,ピレモンに支払いをなすというのです.パウロの力強い宣言を見ます.このパウロの姿は,私たちに私たちの身代わりになり,死の代価を支払ってくださる,主イエスの姿を明示してくれます.

[4]結び
1コリント6章20節,ローマ5章8節を味読.






ピレモンへの手紙味読・身読 その4 『アリスタルコ,よろしくに生きる人』 ピレモン21ー25節

ピレモンへの手紙味読・身読 その4

アリスタルコ,よろしくに生きる人』
ピレモン21ー25節
[1]序
(1)ピレモンへの手紙を味わい3回目として,手紙の最後の部分,21ー25節の箇所を,「アリスタルコ,よろしくに生きる人」との主題で.見たいのです.
この箇所には,パウロの同労者が幾人か登場して来ます.それらの人々の中で,あまり有名ではありませんが,興味ふかい人物アリスタルコに焦点を合わせて行きます。
また最後に、ピレモンへの手紙全体を振り返りながら,「ピレモンへの手紙に見る信仰共同体」に意を注ぎます。

(2)ピレモンへの手紙21節以下は,手紙の最後,挨拶の部分です.
21,22節には,手紙の受信人ピレモンが正しいことをなすとパウロ確信,信頼を述べ,自らの訪問を予告しています.そしてパウロのため,ピレモンと家の教会の人々の祈りに言及しています.23,24節終わりの挨拶を送り人々のリスト.25節は祝祷です.
 この流れの中で,24節に焦点を絞ります.「マルコ,アリスタルコ,デマス.ルカ」とパウロは,一人一人4名の名前をあげ,いずれもパウロの「同労者」.であることを強調し,彼らがそれぞれ「よろしくと言っています」と取り次ぎます

[2]アリスタルコ」
 新約聖書が描くアリスタルコ,彼は決して有名な実物ではありません.しかしその姿は,私たちの注意を引き付けます.
 彼は,テサロニケ出身のマゲドニヤ人(使徒20章4節).エペソの人々がアルテミスの神殿で暴動を起こした際,『人々はパウロの同行者であるマゲドニヤ人ガイオとアリスタルコを捕え』(使徒19章29節)たのです 後に,テサロニケ教会の代表者として,他の教会の代表者たちと共にパウロに同行,エルサレムに向かいます(使徒20章4節).
 パウロが囚人としてローマに向かい出帆するとき,その囚人であるパウロアリスタルコが同行したことをルカは特に記しています(使徒27章2節).彼の人となりがよく現れている場面です.
 パウロがコロサイ人への手紙を書いているとき,ローマでパウロと(いっしょに)囚人として滞在しているのです.
 このように聖書の記述を通しえ見る,アリスタルコの姿は,常にパウロと同行し,苦しみに満ちる場から逃げず,踏み止どまる者の姿です」.そうです.「最後まで」,これがアリスタルコの生活・生涯を表す鍵のことばです.「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示録2章10節).との呼びかけに応答しているのです.最後まで忠実な者が最後まで成長する者です. 

[3]二つのこと
 他の3人についても同じですが,アリスタルコについて,パウロは二つのことを記しています.
(1)「私の同労者たち」
 パウロは,手紙の最初で,ピレモンについて,「同労者」(1節)と呼んでいました.今手紙の最後で,パウロの周囲に,福音宣教の働きの共同の働き人が幾人もいることを明示,彼らからの挨拶を取り次ぎます.
同労者たちとパウロ接触から,パウロの獄中の生活は,比較的自由が保たれ,いわば軟禁状態とでも呼ぶべき側面があったとも考えられます.参照使徒28章16節以下.

 「同労者」,「同じしもべ・しもべ仲間」(黙示録22章9節)
キリスト者・教会の間の交わりと示す大切な二つのことば,その両方が,この短い手紙で用いられています.

◆「兄弟」,父なる神の愛に基づき,聖霊ご自身の助けにより,主イエスの父なる神を「アバ,父」(ローマ8章15節,参照ガラテヤ4章6節)と呼ぶ恵みにあずかった者同士.主イエスにあって,「兄弟」.パウロ,ピレモン,そしてオネシモの間に,「愛する兄弟」(16節).
そして今,ここで聖望キリスト教会に属する私たちの間においても,そこに存在していることが,主にあって尊い各自としての交わり..

◆「同労者」,「同じしもべ・しもべ仲間」.主なる神の使命に基づき,各自がそれぞれに使命を与えられており,その使命を果たし続ける,深い絆(きずな)に結ばれてた交わり.パウロ,ピレモン,そしてオネシモも,同じ主イエスの使命をそれぞれに果たし続けて行く,「同労者」,「同じしもべ・しもべ仲間」.
 そして今,ここで聖望キリスト教会に属する私たちの間においても.コリント教会に対してパウロが勧告しているように(参照 コリント12章12節以下),「どうせ私なんか」(15,16節),「どうせあんたなんか」(21節)からの解放

(2)「よろしくと言っています」
 聖書で用いられている,「よろしく」の意味について理解を深めたいと願うとき,ローマ16章における用例が助けになります.
 ローマ16章3節から16節の箇所で,「よろしく」との挨拶のことばは,15回も繰り返えされています.
 パウロが挨拶を送っている人々の名前やその人々について描かれている言葉を通して,パウロの周囲には,豊かな人間関係が展開されていた事実を教えられます.その特徴として,以下の点があげられます.
  ユダヤ人,異邦人の差別なく,多様な人々が,主イエスにある交わ  りに加えられています.
  奴隷など社会的境遇の壁を乗り越えた,主にある交わり.
  主にある兄弟愛に満たされ,それぞれの持ち場・立場において労苦  を積み重ねての歩み.戦いつつ前進する教会の姿を見ます.
  家庭を通して福音宣教と教会形成.

[4]結び
 どうでしょうか.私たちひとりびとりが私らしいアリスタルコと生きるように導かれたいるのではないでしょうか.今生かされている場に,主によって導かれたと確信して,そこに止まり,分をわきまえ,分を果たす.果たし続ける.主の身元へ召されるまで.

「主よ,おわりまで 仕えまつらん」(讚美歌338番)