取材拒否を受ける恵み 再録

<取材拒否を受ける恵み 再録/span>

クリスチャントゥデイの編集長としての歩みを始めて驚いた意外な経験は、取材拒否を受けることです。

 これは、取材に当たる記者の場合、より直接な葛藤です。他の報道機関で働いたことのある方々も、取材拒否など初めての経験だと戸惑われるのです。
 戸惑うのも無理のないことです。相撲取りが、土俵の下から土俵に上り、いざ勝負と集中する矢先、土俵に入ること自体を拒絶されるようなものですから。
 クリスチャントゥデイの取材は受けないことになっている、遠慮ください。平然と取材拒否がまかり通るのです。土俵に登れなければ、勝負になりません。

 しかし良くしたものです。俗に言う通り、
「捨てる神あれば拾う神あり」なのです。
  確かに一方では、自分自身の確信と覚悟からではなく、組織の縛りや風聞をもとに取材拒否がなされる、しかし他方では、自分の目と頭で、クリスチャントゥデイの紙面を実際に読み、自らの主体的な判断をなす。取材を受けるばかりか、コラムニストとなり執筆を引受けて下さるのです。
 思わざる方々のユニークな入魂の文章が、紙面に登場する準備が導かれています。
「黙れば、石が叫びます」(ルカ19章40節)。
 
取材拒否を受ける経験は、記者個人にとっても恵みとなっていると私は判断しています。
平然とあるいはびくびくしながら取材拒否する側ではなく、明確な理由も示されずに取材拒否を受ける側の視点に立ち、この世の様々な差別を含む現実を取材し、記事に書けるのですから、まさに取材拒否を受ける恵みです。

https://www.facebook.com/memories/?source=bookmark