2015年4月12日(日)③安藤仲市先生から学んだ、三つのこと-聖書で安藤仲市を読む- その4

2015年4月12日(日)③安藤仲市先生から学んだ、三つのこと-聖書で安藤仲市を読む- その4

 安藤仲市先生から学んだ三つのこと。その最後は、いつ、どこでお聞きしたかは記憶していません。ただ、お話の内容が、その時の背景から切り離されて、直接心に焼き付いるのです。
 「宮村先生、教会員の月定献金袋を、私は決して見たり、手にしないのです。祈りが左右されるといけないので」。
 いつ、どこで聞いたか思い出せないのです。しかし何かとても個人的に話しかけてくださった事実は、不思議によく覚えています。

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 私は、高校時代、マタイ6:24、「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」への応答として、牧師の道へ進む覚悟をしました。
 そのような私に何も反対しない父の態度に、親族はいぶかり呆れました。その中で、父は、留学を含め私の神学教育を経済的に全面的に支えてくれました。
 その父が、牧師として歩み出そうとする私に、「乞食坊主だけにはなるな」と、ぽつりと、しかしはっきりと告げたのです。

 牧師になるために一度決心して、言うところの献身者になれば、牧師としての日々と生涯は、「富に仕える」ことから解き放たれるわけではないと、後任に迎えた若い世代のその後の言動を見聞きして、今痛感します。この実態が、福音派の閉塞感としばしば言われる事態と深く結びついていると私は見ます。
 あの安藤仲市先生の厳しい地味な営みこそ、まさに「改革され続けるキリスト者・教会」の在り方と納得するのです。
 そして父の言葉も、貧しい時の心の持ち方であるばかりか、それ以上に生活が保障されたり、経済的に豊かになった時にこそ、まさにその時にこそ「乞食坊主だけにはなるな」なのだと、父の言葉の深さを今にして悟るのです。
 安藤先生と聖公会のメンバーとなった父の言葉をより合わせるようにして受け止めつつ、戦闘の教会の一員として、敵を見極め、止めを刺す決意です。

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