長男忍望との対話、父泰二についての洞察を学ぶ

長男忍望との対話、父泰二についての洞察を学ぶ

 

 3月19日(火)、夕食を取りながら長男忍望とゆっくり対話の時を持てました。

1月に会った時に、私の父・忍望の祖父泰二の実社会で活躍した中でのキリスト信仰をもっと知りたかったと話していたことの続きでした。

 

 1978年父泰二が召天した時、忍望は小学校5年生。私たちから見ても、父泰二の深い愛を一身に受けていました。その忍望が、私とは違って実社会の底辺の現実を経験する中で、実業家として、それなりの波乱に富んだ生涯を歩んだ祖父泰二の信仰に深い関心を持つこと私も理解できます。

 ところが今回は、父泰二の寂しさが話題になりました。

母典子が1970年に召された後、父が寂しさを覚えていたことは、一般的な事実としては勿論理解できます。しかし今回忍望が、「おじいちゃんは、いつも寂しいのを忍望は知っていた」との言葉は、一般的なものを越え、尋常なものではないと私は受け取りました。

 全身で深く愛された者が、自らを愛してくれている者の寂しさを真に知り得たのではないか。私にとっては、神の痛み、神の忍耐に続く神の寂しさと今まで考えたことのない洞察への招きです。