クリスチャントゥデイ第106回編集会議(2019年1月25日)報告

 クリスチャントゥデイ第106回編集会議(2019年1月25日)報告

 

開催日時:2019年1月25日(金)
開催場所 岩本町事務所

(1)宮村師メッセージ


幸いな者、悪しき者の謀(はかりごと)に歩まず、罪人の道に立たず、嘲(あざけ)る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人。その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。(詩編1:1-3、聖書協会共同訳)

聖書の中で詩編が特別な位置を占めていることは、私たちの経験、また他の人の経験からも言われていること。150編のどこをいつ読んでも、前後関係や歴史的な関係にとらわれずに読むことができる、聖書中の聖書といえる。

「聖書、聖書」と、聖書ばかりを言うと、何か狭いような感じをしないでもない。しかし「聖書と私」という関係は変わらないが、その同じ聖書を信仰の先輩、先達たちが読み、同じ聖書を違う環境、違う時代で読んでいたことを覚えるとき、聖書を読むことによって、異なる時代の人々との交流が出てくる。

例えば、内村鑑三マサチューセッツ州アマースト大学に行く前、私よりも100年近く前に、私が学んだゴードン神学院(現ゴードン・コンウェル神学校)近くの海岸を訪れ、自分の罪を海深くに沈めたと語っている。その海岸を訪れたとき、時代は違うが内村鑑三を見る思いだった。すごく深みがあった。聖書も同じく、そのように時代を超えて読むことができる。

詩編であれば、カルヴァンの注解を非常に愛している。カルヴァン堅苦しいと言う人もいるが、ディボーショナルな読み方をしていた。さらに、アウグスティヌス詩編の読み方、現代の月本昭男先生の詩編の読み方・・・と、同じ聖書を読むことで、場所・時代を超えた交流が生まれる。

2節に、御言葉を昼も夜も読むことが書かれている。そして、そのような人は「時に適って実を結」ぶと。詩編は言葉だが、それが実となり、行いとなり、出来事となる。

そのような人は川の「流れのほとりに植えられた木」のようであり、周りがどんなに乾燥していても、実を結ぶための水がある。私たちも、その生活が不毛な環境にあるように見えても、いのちの御言葉を持っている。私たちもまた、先達と同じように御言葉を読んで実を結んでいく。

クリスチャントゥデイの一人一人の交わりは、この御言葉による交わり。御言葉を読み続けていくことによる交わり。

(2)前回議事録確認
(3)取材スケジュール確認
(4)宮村師コメント