あの時沖縄で、では今クリスチャントゥデイでは、なにを、いかに

あの時沖縄で、では今クリスチャントゥデイでは、なにを、いかに
あの時、「天皇代替わり」の中で、クリスチャン新聞の依頼を受け,以下の文を書きました。
 今、再び、「天皇代替わり」に直面する中で、クリスチャントゥデイを中心に、何を、いかに書くべきか問われています。

イースタースペシャル:賛美の力満ちて
初代教会と国家は
「復活・聖霊・教会 世の終わりまで 地の果てまで」

                          宮村 武夫

 最初のことばをどう切り出すか、最後のことばをどう結ぶかが、話や手紙で大切であること、私たち日ごろ経験しているところです。初対面での最初の一言がその後の関係を左右することや、最後に書くことを伝えたいばかりに手紙を書き出す場合すらあるのではないでしょうか。
 聖書も同じです。主イエスが語られたことばとなされた行為を描き、「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため」(ヨハネ福音書20:31)との目的で書かれた福音書。四つの福音書でそれぞれの結びが印象深く私たちに迫って来ます。まずそこから、初代教会の姿と、現在の私たちへの語り掛けを聞いてみましょう。

ともにいる
たとえばマタイの福音書の最後、28章20節。
「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らに教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」。復活の主イエスが弟子・教会と一日一日ともにいてくださる日常生活の経験。飲むのにも何をするにも、「あなたがたとともにいます」との約束の成就を一人ひとりの歩みにおいてしみじみ味わう。この「足のともしび」(詩篇119:105)とも言うべき事実が初代教会の基盤にあり、「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分にあります」(マタイの福音書6:34)との主イエスのことばが、復活のイエスがともにいてくださるとの日々の積み重ねの中で受け止められていたことを思います。

終末から見る
しかし同時に、「世の終わりまで」と歴史を貫く見通しを与えられ、初代教会の人々は生き抜くのです。罪と死に勝利し給うた主イエスこそ、歴史を統治なさる御方。この世のあらゆる権威、権力から解き放ち自由を与えてくださるのです。
「世の終わりまで」と、最後がしっかり見定められる時、その終末から今この時の尊さを見抜く道が開かれます。「多くの神や、多くの主」(Ⅰコリント8:5)に囲まれながらも、偶像礼拝の重圧からも国家権力の絶対化からも解き放たれ前進することができるのです。
 最初の復活のメッセージ。それは、「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます」(マルコ16:7)であったと伝え、マルコはその福音書を結んでいます。主イエスは、つねに先頭を進まれる御方です。仲間内でだれが一番偉いかに関心を奪われているような弟子たち、彼らの先頭に立ちエルサレムへ向かい、十字架を目指す主イエス(マルコ10:32以下)。この御方が歴史の先頭を進まれるのです。これが復活信仰に生きた初代教会の経験でした。マルコの結びも、新しい歴史の形成を指しています。

地の果てまで
福音書記者ルカは、続編『使徒の働き』の最初のことば、1章8節で、復活の主の約束、命令を明らかにしています。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」。
 使徒の働き全体は、復活の主の約束が成就し、命令に教会が服従して行く事実を描いています。この全体の流れの中で、「地の果て」はローマを指していると見てよいでしょう。「こうして、私たちはローマに到着した」(28:14)と告げられている、囚人パウロのローマ到着。これは、地の果てローマで復活の主を証言する機会にほかならないのです(エペソ6:20参照)。
 すべての道はローマに通ずの世界で、ローマを「地の果て」と見据え、しかもその地の果てまで、復活の証人として福音を宣べ伝えて行くのです。これが復活信仰に生きる、初代教会の姿です。

聖霊ご自身によって
1989年イースター、「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)と約束してくださる復活の主を私たちもそれぞれが生かされている生活の場で見上げます。
 「世の終わりまで」との約束に立たせていただくのです。そして時の流れに流されることなく、復活の主との交わりを日常生活の中で経験し、自分の生涯の最後、死を余裕をもって正直に認め、そこから今日の日を見ます。
 平凡な日々の繰り返しと見える現実生活です。その中でも元号に象徴されるような、一人の人間の生死によって歴史に区切りがつくかのごとき主張に直面します。しかし私たちの生活は基本的に落ち着いたものです。何事もなかったかのごとくです。いつも生きていて私たちのためとりなしておられる(ヘブル7:25)復活の主が、再び「来たりて生ける者と死ねる者とを審き」(使徒信条)たもう日を待ち望みます。そして一人ひとりのため、小さな祭司としてとりなし祈る歩みを重ねるのです。
 それぞれの生かされる場で、聖霊ご自身に満たされ導かれつつ、あらゆるローマ中心主義から解き放たれたい。政治・経済的にも、文化的にも、そして宗教的にも。いわゆる「ローマ」を「地の果て」と見抜く覚めた目をもって、しかも「地の果てまで」との約束に支えられ生かされたいのです。これこそ、初代教会の道であり、1989年私たちの道ではないでしょうか。

(「天皇代替わり」に伴い、日本でも再び、教会と国家の関係が意識され、その正しい在り方が祈られ論議されるようになってきた。初代教会は「ローマ帝国」の勢力下にあって、どんな信仰を持ち、どう世俗の「国家」とかかわったのか、聖書は何を命じているのか。日本の首都から遠く離れ、沖縄の視点で伝道・牧会を進める宮村武夫師が論じる。)