「ロゴセラピー」、55年前の懐かしい思い出

「ロゴセラピー」、55年前の懐かしい思い出
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★「ロゴセラピー」と読み、最初にその言葉を耳にした懐かしい思い出を想起しました。
 1963年9月から、Gordon Divinity Schoolで学びを始めた時、一つの科目は、ゴードンカレッジのT教授によるものでした。ヴィクトール・フランクルの下で学んだT教授は、その後フラーに移り活躍されました。
 その授業も私にとって新鮮なものでした。英語の制約があったのですが、私なりに理解できました。しかし一方的に聞いているだけでなく、質問したくなったのです。
 フランクルの主張として提示される人生の「意味」の重要性を、仏教の教えとして聞いてきた「空」との対比でどう考えたらよいのかをめぐってです。
 ところが、「空」を英語でなんというのか思いつかなかったのです。私の素振りで、質問したがっているのを察知した、寮のめっぽう人の好い同室者リッチ・ワイゼンバッハは、私に恥をかかせないようにと質問を止めようとするのです。今でも基本的にはあまり変わらないにですが、そうされればそうされるほど反対の態度をとってしまうのです。
 そのときも、立ち上がって、空をcomplete nothingness like stoneと表現して、たどたどしい質問をしたのです。

 今回、栗栖氏の、「レスリーは、このサマリヤの女はフランクルが『実存的空虚』と呼んでいたものを見事に体現していると述べている。」との文章の中の「実存的空虚」をcomplete nothingness like stoneと言い換えようとしている、しつこい自分を意識しました、何と言いましょうか。

「ロゴセラピー」をイエスの生涯から読み解く名著 『イエスとロゴセラピー』
ロバート・C・レスリー著、萬代慎逸(まんだい・しんいち)訳『イエスとロゴセラピー』(ルガール社、1978年)

前回、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を紹介した際に、ロゴセラピー(聖書を基盤とした精神療法)について触れたが、今回紹介するロバート・C・レスリー著『イエスとロゴセラピー』も同じテーマを扱っているので、ぜひ読んでいただければ幸いである。

レスリーは、フランクルが提唱したロゴセラピーの始まりは、イエス・キリストが、精神的・肉体的に傷つき、生きる望みを失った人々に対して癒やしのわざを行われたことに起源するという、極めて興味深い説を立てている。以下にその概要を紹介しよう。

<人間の精神の反抗的力の動員―孤独なザアカイ(ルカ19:1〜10)>

取税人であるザアカイは、通行人から規定以上の通行税を取り立て、それを自分の懐に入れていた。また、サイドワークとして高利貸しもやっており、利子の払えない者は裁判所に引っ張ってゆき、牢(ろう)にぶち込ませることもあったのである。レスリーは、彼の心理を分析して次のように述べている。


ハリー・スタック・サリヴァン統合失調症の治療に大きな影響を与えた米国の精神医学者)は「すべての人間は彼独自の安全操作――すなわち自尊心と自己の存在意義を守る独自の防御法を用いるものである」と述べている。ザアカイの場合、「安全操作」の概念を用いれば、取税人という人に嫌われる地位を引き受け、外敵の奴隷となった理由が理解できる。人はもし自分の共同体から孤立し疎外されていると感じないでおれないとき、彼は最初に自分を拒絶した共同体に敵対するような地位につくのである。(34〜35ページ)

こうした事情に加えて、ザアカイは惨めなほど背が低く、しばしば人々から笑いものにされていたようだ。こうしたいじけきった男の人生をイエス・キリストがどのように変えたのかをレスリーは述べる。


エスとザアカイの出会いに、はっきり実証されている人間変革の鍵を再発見できる。それはどんな理論よりも重要であり、どんな技巧よりも基本的で、かつどんな教えよりも大事なものは、2人の人間の間に存在する一対一の関係である。(41ページ)

援助する人が疑いと不信の壁を破るために、どれほど自分自身を賭けなければならないかは、ザアカイの出来事の中にあざやかに証明されている。そこに集まった人々の非難を「ものともせず」、イエスはザアカイと親しい関係を結び、彼の家の客になるのである。(43ページ)

<ライフワークの発見―富める青年(マルコ10:17〜22)>

この青年は病気ではなかったが、毎日虚(むな)しさに心を蝕(むしば)まれていた。それは、意義ある仕事にたずさわっているという実感がまるでなかったのである。


一人一人の人間にとって生の意味は、特定のライフワークを果たすことによって見いだされるのである。自分が召された一生の仕事を見いだせた人々が、この世で最も幸福なのである。(51ページ)

この富める青年は生気を失った十戒の言葉を、意味中心の生活によるさらに大きな調和の中に置く必要があった。しかし、そのような変化をやってのけることは青年にはできなかった。(57ページ)

結果的に、この青年は説得力のあるイエスの言葉を受け入れることはできず、悲しみつつ立ち去った。しかし、ずっと後になって彼が新しい人生を築き直す可能性のあることをレスリーは示唆している。


カウンセラーは絶望しない。というのは、たとえ解決を求めてきた人が悲しげに立ち去ったとしても、彼はまさしく彼なりの方法で、人生が基本的に生きる値打ちのあるものだということを考えさせられ、その生を生きていく可能性にもう一度直面させられたからである。(63ページ)

<実存的空虚の克服―サマリヤの女(ヨハネ4:4〜27)>

人間はしばしば、どうでもいいようなことを自分の目的と勘違いし、つまらない快楽を追い求めることがあるものだが、このサマリヤの女もそうだった。生きる目的を失ってしまったからである。レスリーは、このサマリヤの女はフランクルが「実存的空虚」と呼んでいたものを見事に体現していると述べている。


「わたしがかわくことがなく、またここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」――ギリシャ語原典のより正確な意味は「日常生活の無意味で変わりばえのしないきまりきった仕事の中で、来る日も来る日もわびしく骨の折れる水くみを続けなくてもいいように、その水をわたしに下さい」と表現できるだろう。彼女は人生に何の意味も見いだせなくなっていた。(71ページ)

エスが彼女に対して働きかけた重要な強調点は、この女性に性の快楽による幸福追求が無意味であることを示すことであった。(75ページ)

エスは与えられた話題を取り上げて、それを彼女にとって個人的に関連する領域へと会話を導き、神を含むさらに大きな次元に彼女の要求を結びつけたのである。(77ページ)

<態度的価値の実現―ベテスダの池の病人(ヨハネ5:2〜15)>

この病人の一番の問題点は、外にあるのではなく内にあった。彼は病気というものにしがみつき、それによって自分を正当化していた。このような病人に対して、イエスが行われた療法について、レスリーは詳しく述べている。


ベテスダの池の病人に対するイエスの質問はきわめて理にかなったものである。「あなたは癒やされたいか?」 この質問の意味は「あなたは自分の病気をどのように捉えているか? あなたの病気はあなたの人生態度にどのような影響を与えているか?」というものである。(中略)長い間、他人に助けてもらうことばかり考えていたこの病人は、どうしたら自分で自分が救えるかという点を見落としていたのである。(149〜150ページ)

レスリーは、フランクルの果たした大きな貢献は、苦悩に対する態度自体の中でこそ人生の意義を見いだせると主張したことだとし、これこそまさにイエスの療法と一致すると述べている。


ベテスダの池の病人に対するイエスの励ましは、単刀直入な働きかけに集約されている。「起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい」。(中略)ナザレのイエスの面前で、苦悩していた人間が奇跡的な方法で救われたのである。詳(つまび)らかなことは重要ではない。体が動かない症状から解放されたにせよ、病的な考え方から解放されたにせよ、彼は救われたのである。(157〜158ページ)

※ 記事中で紹介している引用は、該当ページの引用箇所を要約したものです。

■ ロバート・C・レスリー著、萬代慎逸(まんだい・しんいち)訳『イエスとロゴセラピー』(ルガール社、1978年)

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◇栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)

1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。