詩篇119篇の味わい その5 詩篇119篇65-79節

詩篇119篇の味わい その5
詩篇119篇65-79節

詩篇119篇65-72節
詩人が経験した苦難(69、70節に見る「高ぶる者」からの迫害)は、神のおきてを学ぶ機会となる。試練の教育的意義、参照ヘブル12章10節。

65、66節
「みことばのとおりに」(65節)、主なる神は、自由な恩愛を、約束を成就してくださるという管をとおして、注いでくださる。
「よくしてくださる」(65節)、直訳では、「善をなす」。66節の「良い」、68節の「いつくしみ深い」、71節の「しあわせ」、72節の「まさる」も同じことば。
「分別」(66節)、健全な思慮と正しい判断・識別力。
聖霊ご自身の導きより信仰を与えられ、さらに悟りを祈る。神の律法に従順になるように、「分別」・慎重な知恵を詩篇の詩人は求めている

67節
「あやまちを犯す」、知らずして犯す過失を表す。参照レビ5章18節、民数15章28節。
様々な苦しみを通し、初めて頑迷さを克服して、主なる神に従順な者とされる、自らの弱さを熟知する。

68節
参照24節。主なる神に何を祈り求めるか。詩人は、「どうか、あなたのおきてを私に教えてください」と、聖霊ご自身の導きにより、みことばを正しく、深く、豊かに受け止める事実に立ち祈る。

69、70節
「高ぶる者どもは、私を偽りで塗り固め」(69節)、高ぶる者たちは、偽りの中傷を詩人にあびせ、彼の詩人の本当の姿を隠してしまう。そのような中で、人からすべてを見る視点から、主なる神を見上げて、詩人は、「私は心を尽くして、あなたの戒めを守りました」(69節)と恒常心を堅持し、心を尽くして神の律法に従うのです。
70節、69節に見ると同じことを、主なる神の律法だけを喜びとする詩人の信仰から言い表す。

71節
神のことばは、生活体験の中で受け止められて行く。
「わたしがあなたの法を学ぶために
苦しみにあったのはよかった」、主なる神の矯正の結果を味わう。
詩篇119篇73-80節
造られた者として、創造主のことばを待ち望む、神のことばに応答する者として創造された、人間・私。
73、74節
主なる神の御手により、形造られた者、参照139篇13-16節。
主なる神のことばにより生かされる者としての人間・私、参照マタイ4章3、4節。この本来の道を歩むためには、聖霊ご自身の助けを受け、導かれる必要があり、「どうか私に、悟りを与えてください」と、詩人は祈る、参照66節。
神の恵みにより、「ことばを待ち望んでいる」詩人の姿は、神のしもべたちの喜びとなっている。ここでも、主なる神の恵みが先行。

75節
神のさばきを正しいとし、御名をほめたたえることは、聖書全体の信仰に通ずるもの。
「真の敬虔に特有なのは、われわれが自分の罪ほどには他人の罪を厳しく詮索し、これをさばかないことである」(カルヴァン)。

76、77節
「あなたの恵み」(76節)が、自分に与えられた「みことば」(76節)のうちに提示されていることを詩人は深く知り、慰めを与えられています。
77節は、76節とほとんど同じ内容を異なることばで表現。
「生かしてください」(77節)、試練の中で、死に瀕する状態にあって、神の恵みと「あわれみ」は、最後まで耐えさせてくれる慰めと支えてある事実を、詩人は深く経験し、告白している。

78、79節
78節、偽りの中傷の中で苦しむ者の祈り。
「律法を通じて、神がいかに忠実にその民を守られるか、またいかに確かな解放者、いかに義しい保護者であられるか」(カルヴァン)。
「私のところに帰りますように」(79節)、主なる神の民との霊的交わりの回復を求めている。