喜びカタツムリの便り 第2 期47 号 再掲載

喜びカタツムリの便り 第2 期47 号 再掲載

発行者 宮村武夫
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2018 年3 月 再掲載

[1]序
2018 年2 月、今年も忘れ難い月となりました。2 月3 日(土)から21 日までの沖縄訪問宣教を中心に、一つの全体的見通し(戦略)が、改めて私のうちで確立しました。沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む沖縄での25 年間の歩みが、「聖書をメガネに」のクリスチャントゥデイにおける現在の営みの土台となっていることは以前から深く自覚しておりました。

ところが、今回、クリスチャントゥデイを中心に直面している事態と、沖縄で起こっている事々が同時に進行している当然な事実の意味をと、今更ながら深く心に刻んだのです。
また両者で生じている事柄はスケールの大小の差こそあれ、両者の根底にある一つの類似性を認識し、それにどのように対処すべきかが真に課題であると確認したのです。

[2] 2018 年2 月沖縄での日々、私の視点から
2 月3 日(土)、名護市長選前日、夕方に那覇空港に着き、沖縄時代以来主にある深い交わりを重ねることを許された、那覇聖書研究会の宮城さゆり姉の出迎えを受け、定宿の那覇新都心東横インへ送って頂きました。

2 月4 日の主日礼拝は、ここ数年続いている通り、無教会の那覇聖書集会で。ヘブル10:32−39 に焦点を絞り、「確信と忍耐」との主題で、心行くばかり御言葉を味わいました。
第1 主日同様に、第2 主日は沖縄バプテスト連盟ジョイ・チャペルで、第3 主日は名護チャペルの主日礼拝で宣教担当、それぞれ主にある喜びの機会でした。主日礼拝や大小の集会における直接の聖書の学びに加えて、しばしば会食と合わせての各種の面談は、今回も恵みの機会でした。

そうした中で、今回一つ特別なことは、2 月5 日(月)、名護市長選翌日の午前中、県庁を訪問知事公室秘書課の方に、翁長知事あての手紙と「喜びカタツムリの便り」を委ねたことでした。

インターネット上で、一方的、私から見ると、沖縄に対する無責任な言いたい放題の発信がなされている実情を見聞きする中で、私なりに、平和の神学を基盤・中心としながら、神学全体を有機的に受け止め、正しく、深く、豊かに把握、その生きた神学を生活しながら発信する営みを継続した願いがつよまりました。
日本近現代の歴史の中で、身をもって平和の神学を把握し発信して来た、敬愛する先達内村鑑三に学ぶ、ささやかな歩みです。
上記の私の理解と実践については、私と異なる判断があることを承知しています。

[3]2018 年2 月クリスチャントゥデイをめぐる日々、私の視点から2 月3 日(土)の出発前、1 月10 日(水)の編集会議では、クリスチャントゥデイに対し繰り返される否定的な評価をめぐり論議がなされました。
その席上、当時編集長だった雜賀兄が、日本基督教団議長声明が出されるとの情報に何故か異常に見える恐れを示す言動に対して、「何をそんなにたじろぐのか、恐れることなど何もない」と私なりに明言しました
編集会議の翌日、1 月11 日(木)、雜賀兄が脳内出血で倒れ、入院静養との報が伝えられました。さらに結果的には、その時から私たち夫婦が沖縄へ向かうまで、また沖縄滞在中、二つの核を中心に一連の事態が続きました。
まず1 月27 日付けの日本基督教団議長声明。私は少しも驚きませんでした。しかし日本基督教団の名誉を覚え、この声明が出されることを憂え、阻止しようと努力していた幾人かの尊敬する日本基督教団牧師先生の存在を知っていましたので、残念でした。

また従業員の2 名とそれぞれ1 時間、2 時間の長い話を電話でしました。ポイントは一点です。
矢田社長と内田兄の異端信仰の嫌疑(私には、一方的断定に聞こえました)と二人がそれを否定する機会を避けているとの指摘です。
2014 年4 月クリスチャントゥデイ編集長を引き受けた理由が、それ以前1 年間、ほとんど毎週1 回面談を続ける中で与えられた矢田社長に対する信頼と、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」との覚悟であることは、一今まで貫して言明していることです。
ですから、その後他の二人の方からのメールも、さらにはその後2月8日付け従業員声明そのものも、私には何ら決定的な影響を与えません。
従業員声明を通して見える、雜賀兄や中橋兄の短時間の私にとっては不自然な豹変は、単なる情報ではなく、編集会議を中心に私自身が目撃してきたことです。その事実とそこから生じる従業員声明についてキリスト新聞やクリスチャン新聞の応答の速さは、これらの動きの一切が無関係と見ることを許さないほどのものです。従業員声明に対する私なりの理解については、私のブログで時間をかけて展開する予定です。

以上の一連の動きに対して、私の助け励ましとなったのは、先達の聖書解釈です。特に、アウグスティヌスの聖書解釈です。昨年、以下の文章を書きました。再録します。
聖書をメガネに 『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』に学ぶ基本メッセージ 宮村武夫
M・スコット・ペック著、森英明訳『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』(2011年、草思社文庫)
http://www.christiantoday.co.jp/articles/24487/20170923/seisho-wo-megane-ni-97.htm
M・スコット・ペック著、森英明訳『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』(2011年、草思社文庫)

かなり長時間をかけて熟読、やっと、あるいはついに読了しました。いろいろ線を引いたり、書き込みをしたりしました。ですから、本書の細部からも、新鮮な示唆を幾つも受けました。
しかし、今回報告したいのは、私なりに把握できたと判断する本書の中心点です。著者は、「悪」を軽視も、まして無視もしない。本書の副題、「虚偽と邪悪の心理学」が、この事実をよく表現しています。
悪の実態は、本書の書名、「平気でうそをつく人たち」が、物の見事に指摘します。そうです、うそです。
(1)あることをないかのように言う

(2)ないことをあるかのように言う
この両面を持つ1つの実態(参照:ヨハネ8:44)。しかし、同時に注目すべきは、著者は、善悪二元論のように、悪を絶対視しないのです。
本書と並行して、毎日の「宮村武夫牧師5分間メッセージ」準備の1つとして読んでいるアウグスティヌス著『ヨハネによる福音書講解説教2』の66、67ページが、1つの明確な手引きを与えてくれました。ヨハネによる福音書6章70、71節に見るイスカリオテのユダについての記述を講解している文書です。
私なりに要約すると、以下の点を含む基本的恵みを無駄にする(Ⅰコリント15:10)事実です。
(1)悪、悪人は神のすべての善を悪用

(2)神は悪人の悪しきわざをも善用
「悪人は神のすべての善を悪用し、それに対し善人は悪人どものなした悪をも善用する」
「主は彼の悪事を善用したもうた。主はわたしたちを贖(あがな)うために、自分が裏切られるのに耐えられた。見よ、ユダの悪事は善に変えられた」
アウグスティヌス著『ヨハネによる福音書講解説教2』66、67ページ)

M・スコット・ペックが本書において提示しているのは、アウグスティヌスが聖書の講解で提示している善と悪の関係であり、最後には善が勝つという希望についての彼独自の心理学的説明です。
そうです、悪は愛によってのみ封じ込め得るとのメッセージです。
1963年から72年まで、M・スコット・ペックは、沖縄勤務を含む9年間、米軍所属の精神科医として働いています。その間に、米国のベトナム政策やベトナムでの米軍の行動に大きな疑問を持ち、そうした経験と思索を通して、本書5章「集団の悪について」が記述されています。

私は、1963年から67年、ニューイングランドに留学。1986年から2011年まで25年間沖縄に滞在したこともあって、上記の「集団の悪について」の記述が心に深く刻まれました。」

★沖縄での現状。そして小なりとは言え、クリスチャントゥデイをめぐり生じている事態。そうです、
その両者は,創世記3章の有名な、エバへの蛇のいざないの記事から、Ⅱペテロ2章のにせ預言者の記事まで、聖書を貫く情報の混乱の中で神の恵みの事実を見抜く洞察力の課題と結びつき、
クリスチャントゥデイも、その課題に応答を問われています。
(1)どんな大きな人、権力にもたじろがない

(2)どんな小さな人、小さなこともあなどらない。
たじろぐ者が、しばしばあなどる者になると自戒し、主に支えられて、直面する課題に応答したいのです。アーメン。