畏友故教会音楽家・天田繋先生の思い出 その2

畏友故教会音楽家天田繋先生の思い出 その2

 天田先生との長年の親しい交わりの記念碑は、なんと言っても、天田繋作曲、日本二十六聖人『長崎殉教オラトリオ』をめぐるものです。
 
 1997年4月29日、『長崎殉教オラトリオ』が、1597年の長崎での出来事を記念して、上野・石橋メモリアルホールで再演(初演は天田先生の東京芸大卒業時)されたのです。
 その時、プログラムの文章を、遠く沖縄から書き送る栄誉を天田先生は、私たちの主にある友情の印のように私に与えてくださいました。
 
★そのときの思い出を、キリスト新聞の一月担当のコラム欄のコラムの一つに以下のように刻みました。

『あなたの慈しみは命にもまさる恵み、わたしの唇はあなたをほめたたえます。』(詩篇63篇4節) 
 1997年4月29日、畏友天田繋作曲、日本二十六聖人『長崎殉教オラトリオ』全十景が、1597年の長崎での出来事を記念して、上野・石橋メモリアルホールで上演されました。その日、伊江島を一人で歩き、ハンガリーへお帰りになったネメシェギ神父の言葉を思い出していました。
  埼玉県寄居キリスト福音教会の一牧師を、『キリストにある兄弟宮村さん』とネメシェギ教授は温かく受け入れてくださり、1968年4月から3年間、上智大学神学部で学ぶ道が開かれました。二週間に一度、イエズス会の寮にある先生の部屋で、与えられた課題について考え、調べてきたことを申し上げる。それは、今思い出しても至福の経験でした。そのようなある日のこと、初代教会をめぐる一つの論文を読み、考察していたとき、『この神学では、殉教はできません』と、温厚な先生が静かに言い切られました。
  六月、沖縄で開かれた第四回日本伝道会議への一つの応答として、上記のオラトリオを沖縄で上演できたらと幾人かの者が準備のための小さな一歩を踏み出したところです。時・歴史、場所・空間の隔たりを越える教会のリヤリティーを、『命こそ宝』の島の現実の中で告白する者たちの証し、星野富弘さんの詩への共鳴として。
  『いのちが一番大切だと
   思っていたころ
   生きるのが苦しかった
   いのちより大切なものが
   あると知った日
   生きているのが
   嬉しくなった』」

★★何と2000年沖縄における第四回日本伝道会議への一つの批判的応答として、上記のオラトリオの三度目上演を沖縄で実現できたのです。
 雲を掴むようなど素人のたわごとに見える私の提案にもかかわらず、主にある交わりの中から生み出された天田先生の私のような者に対する信頼によるものです。感謝。

 オラトリオの三度目上演の準備段階も、天田先生との主にある交わりの機会でした。
基本理解
(1)殉教の重要を学ぶとともに、同時に殉教だけがが特別なことでないと受け止めらる神学と生活・生涯。

(2)天田繋先生に対する理解と敬意
 オラトリオを作曲出来る作曲家として

(3)2000年沖縄における第4回伝道会議の批判的継承
 無教会からローマカトリックまでを視野に、聖書的エキメニズの提唱。

[2]今回のオラトリオ演奏会 
基本態度と体制
「始めは小さく、計画は大きく」(A.シュラッター)
(1)若い世代を中心とした実行委員会と経験豊かな顧問団

(2)県立芸術大学の学生、卒業性を中心とした出演者。
 宣教の理念とスピリット。教会と大学の関係理解の一つの実例として。『

(3)フィリッピン教会(火災のため死傷者)への献金・支援金
 地域に根差し、地域を越える教会として、アジアの教会との深い、広い交わり。

[3]これから
(1)今回の出演者で、長崎での上演

(2)オラトリオ『琉球・沖縄』−歴史の中での福音宣教、歴史を形成する教会−、沖縄の教会から沖縄県民へのプレゼント

(3)沖縄の二つの宝、県立両大学、沖縄の全体が大学のため、そのためだけに祈る月に一度の集まり、まず十年、やっぱり三十年は。二人、できれば三人の方でスタート。

[4]結び
(1)豊かな漁場を求めて、山に木を植える漁師の方々に学ぶ。
   沖縄全高校のための祈りのネット・ワーク。

(2)からだ、物質を軽視、無視するグノーシス主義に対して、聖書の終末論の宣教とそれに従う生活・生涯。

★[3]、[4]は、私の生涯における幾つもの見果てぬ夢の一つ。