「童謡説教」をめぐって その12 父宮村泰二の存在と信仰

「童謡説教」をめぐって その12 父宮村泰二の存在と信仰

★童謡説教の背後に、父宮村泰二の存在と信仰を認めるようになるまで、それなりに時間がかかりました。

江東区冬木町の聖公会・聖救主教会の主日礼拝出席tとパウロ会集会
 毎年1回は、父パウロ泰二が所属していました、江東区冬木町の聖公会・聖救主教会の主日礼拝に出席したく願っています。私が直面している制約の中ですが、毎回祝福された礼拝と心温まる愛餐の交わりに預かり、感謝です。
 また毎年6月の第1主日の夕方には、7日(日)の夕方には、父の召天を記念して始めたパウロ会を開き、家族親族が集います。
 パウロ泰二の召天は、1978年6月4日でした

父が10歳の少年の時に
 父は、関東大震災の時、深川新大橋から祖母の実家、栃木県佐野市疎開、10歳の少年はその地にあった聖公会教会学校に出席したのです。
 
 その結果は、直接直ぐに実を結ばないように見えました。しかし後年私が高校時代キリスト信仰に導かれ、長男であるにも関わらず家業を継がず日本クリスチャンカレッジに進学した際、親族がいぶかる中で、父は私の行為に一切反対しないばかりか、留学を含め経済的支援をしてくれました。
 
 さらにその後20年近く年月を経過して、聖救主教会の故鈴木勉司祭から受洗したのです。パウロ泰二の誕生です。
 鈴木司祭は、私の開成の先輩で、生前親しい信仰の交わりを頂きました。
父の聖救主教会との出会いも、父らしいものでした。父は、だれかれとなく誘って、深川から浅草でご馳走するのが好きでした。その浅草の串カツ屋のママとの話が弾み、
「私の弟は、下町から開成へ」、「うちの息子も同じ」。
「その弟が私が通っている冬木町の教会の司祭」、「うちの息子も、青梅の教会の牧師」。
 かくして、父は、鈴木司祭の姉上に導かれ、聖救主教会へ、感謝。

 疎開先の10歳の少年の心にまかれた種は、確かにむなしく地に落ちたのではない。父の召天を契機にキリスト信仰が確立した末弟三郎は、足立キリスト教会を牧会しています。
 その足立キリスト教会で、毎年も、6月第1主日の夕方、父を記念してパウロ会を開き、家族。親族が集い会食の交わりを持ちます、感謝。

父と成沢炭鉱
父と成沢炭鉱のことを断片的に考えます。
 現在は、いわき市の一部いわき市好間町大利成沢にあった、成沢炭鉱。
戦時中、母典子は、私と次弟義男を連れて、東京深川からそこに疎開しました。
 戦後復員してきた父泰二が直接炭鉱の経営に当たるようになると、黒いダイヤと呼ばれ掘れば売れる時代の流れの中で、中小も小の小に過ぎない成沢炭鉱も急速に活気を帯びるようになり、大勢の人々が集まりました。
 30代半ばの父の生活と生き方は、長男の私の目から見ても潔いもので、それは後年のキリスト信仰の有り方にも通ずると私は理解しています。

 私は小学校4年生の時に東京に戻り、江戸川区小岩の祖母と一緒に生活するようになりました。その時は全く理解していなかったのですが、私の将来のため両親が備えをなしてくれていたのです。両親が東京へ引き上げてくるまで、休みごとに成沢で過ごしました。
 成沢炭鉱、いわき市福島県は、私の人格形成にとり、大きな影響を与えています(「神を愛し人を愛し土を愛す」宮村武夫著作 1 『愛の業としての説教』、宮村武夫著作1,268−270頁)。 

友が見た父  
 1958年4月、日本クリスチャンカレッジに入学、寮の同屋は4名。現在まで、親しい交流を重ねれいるF兄からメールを頂き、喜び。
 F兄は、ず−うと後年になって私が初めて認めることが出来た父の父らしさを、初対面から見抜き、好いて下さっていたのです。

「お元気でご活躍のご様子なによりです。
8/30のユーチューブ拝見?しました。
久しぶりにお父さんのこと思い出しました。

JCC時代よく御馳走になりましたね。
すき焼きを御馳走になりに行ったあるとき、電話を受けておられたお父さんが『…相手を信用しないお方とはお取り引きできません…』と、きっぱりとした口調で話されていたことを覚えています。・・・」

 あの当時、父は、江東区大島7丁目の広々とした石炭の貯炭場の一角に、母のアイデアを多く生かした自宅を新しく建て、私たちの家族は、小岩から引っ越していたのです。