喜びカタツムリの便り 第2 期50 号 発行者 宮村武夫

喜びカタツムリの便り 第2 期50 号
発行者 宮村武夫

喜びカタツムリの便り 第2 期50 号
発行者 宮村武夫
郵便番号133-0051
東京都江戸川区北小岩2−8−8−402
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2018 年5 月28 日
イザヤ書46 章3、4 節
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいる時からになわれており、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。
あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う 。
わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。
わたしは背負って、救い出そう。」
ゴルゴタに 喜び進む カタツムリ 御国目指して
苦難の道を」(改革派教会の市川康則先生と合作)
マタイ11 章28、30 節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさ
い。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくび
きを負って 、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびき
は負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
ゴルゴタを 担いて歩む カタツムリ 御国目指して 倒れつ立ちつ」(市川康則先生と合作)
[1] 序
クリスチャントゥデイにおける矢田、内田、宮村3 人が、5 月の日々、編集会議を中心
に歩みを進めることが出来、感謝でした。3 人の賜物の違いを認め、その上で一致協力す
る在り方は、単に3 人の賜物が一つになるたし算の営みでなく、矢田×内田×宮村の相乗
効果(そうじょうこうか)・掛け算の恵みに導かれていると実感しています。
2
その上で、クリスチャントゥデイの方向と実態をご自身で判断し、個人の確信と決断を
持って寄稿してくださる方々が、5月も加えられました。
[2] クリスチャントゥデイ、6 月、7 月
1 回、2 回限りの寄稿者ばかりでなく、専門的な課題に焦点をあわせ、連載の形でじっく
り、しかも私たち一般の読者に分かりやすく書いて頂く。そうした方々が常時掲載に備えて
いる態勢を築くため、6 月と7 月歩みを進めたいのです。
このために、勇気と真実をもった、各世代の方々の中から、この方が、この方もと、クリ
スチャントゥデイ事務所を訪問くださる一人一人が起こされるようにも祈ります。
人事や経済で組織的に結びつくのでなく、各自が自立しつつ、主にある志でリンクされて
いく、聖書的なエキュメニカルな交わりの誕生と成長を祈ります。ご意見や注意などお伝え
下さればうれしいです。
[3]宮村武夫著作4「福音の力と事実 テサロニケ人への手紙第一・第二、ガラテヤ人へ
の手紙、ペテロの手紙第一」の刊行
説教者として召命を受けた私の教育と経験、そのすべてがクリスチャントゥデイの働き
のため与えられた備えであった事実をますます実感しています。
同時にクリスチャントゥデイでインターネットを活用する働きの経験が、従来の紙の印
刷・出版に加え、新しい方策を開いていくに違いないと期待し確信します。
そのような将来を展望しつつ、著作集7 冊目の発行の最後の備えをしています。
本著作集は刊行の初めから、巻頭言や巻末エッセイを大切にし、それらを通して対話の展開
を期待してきました。今回も以下のような対話が展開されており、感謝しております。
(1)宮村武夫著作4「福音の力と事実 テサロニケ人への手紙第一・第二、ガラテヤ人へ
の手紙、ペテロの手紙第一」巻頭言
日本キリスト教会引退教師 池永倫明
個人的な想起
はじめに、畏友宮村武夫牧師を筆者が尊敬するのは、ひとえに彼が優れた福音説教者、
牧会者であるという一点であって、そのほかのことではないと、ことわっておきたい。
彼とはじめに会ったのは、御家族と友に沖縄の福音派の教会に赴任された数日後で、首
里福音教会という名の開拓伝道初期の無牧の教会に、思いを越えた経過で導かれたことを
後で知った。宮村武夫牧師は、「沖縄赴任後一番最初に訪ねて来られた牧師は、池永牧師
だった」と言われ、この訪問を喜んでおられた。その赴任直後の宮村牧師一家の住居は、
沖縄の駐留米軍からの払い下げのカマボコ型兵舎の一棟であった。当時おそらく宮村一家
の御家族は沖縄での開拓伝道の厳しさを覚悟し、また実感されたのではなかったかと思う。
爾後、宮村牧師との交わりは深められ、カルヴァンキリスト教綱要』(邦訳)の超教派
3
の共同研究会にも共々参加した。この会は各教師が担当を決めて、章毎に解説し、論議
るもので、すこぶる楽しかったのを筆者は回想する『綱要』の全体を一応読み終わったと記
憶している。
宮村武夫牧師は、教会・キリスト者とは「主イエス・キリストを首
かしら
として生きる群れで
ある」と、基本的に考えておられ、そこに立って生きているなら、どんな教派のキリスト
者とも、主を首
かしら
とする者同志の交わりを実践し、大変エキュメニカルな姿勢を持ち、胸
襟を開いて語り合い、信仰の交わりをする牧師であった。また沖縄での諸平和集会の参加
者の中に、御家族と共に、いつも長身の彼の顔があった。彼から教会の諸集会のプログラ
ム・週報・月報などもよく手渡され、たとえば青少年中心の離島での夏期研修会などが綿
密な企画のもとでなされ、その実践力に筆者も教えられ、影響を受けた。
また宮村武夫牧師は、沖縄の超教派の「沖縄聖書神学校」の新約聖書学部門の講師(この
当時この神学校校長は、筆者の記憶では、福音派に属しておられた運天康正牧師であり、
運天牧師は、カルヴァンの『キリスト教綱要』をこの神学校の教義学の教材とすると、入学
式で宣言しておられた。沖縄のいくつかの教派の牧師たちも講師に依頼され、いわゆる手
弁当で、将来沖縄で福音宣教に仕える人材、また教会学校教師などで教会で仕える人材を
育てるために、首里の「祈祷院」を借りて神学教育をしたのであった。当時他県の整った神
学校にゆけない現地沖縄の若者たちを育てるためにこの神学校はよい働きを果たしたので
はないかと筆者は考えている。
宮村武夫牧師と、時折会って雑談を交わしている中で、彼が社会福祉の問題に深くコミ
ットしておられる印象を受けたし、また日本クリスチャン・カレッジで提出した卒業論文
がドストェフスキー論であった(「主よ、汝の十字架をわれはずまじ ドストエフスキー
神学的―考察」)と言われたのを記憶しているし、彼の説教集の中にドストェフスキーの作
品にふれたものもあり、何かのエッセイ的な文章の中にドストェフスキーの『悪霊』にふれ
たものもあったのを今思い起こす。
彼との交わりの中で、宗教改革史、教理史、世界の教会史、日本のキリシタン史、日本
の教会史、沖縄史、沖縄の民間宗教、日本の諸宗教史などについても、よく学んでおられ
る印象を受けた。それも彼が福音説教者として、宣教の対象である日本人の文化的背景を
把握したいという願いからの学びであると思われる。
筆者は宮村武夫牧師の肉声による説教を聴きたく、かねてより思っていたが、その望み
がかなったのは、筆者が当時牧会していた蒲田御園教会の特伝に講師として沖縄から迎え
たときで、教会員たちは、その説教と講演から大きな信仰の益を受けることがゆるされ、
今も感謝している。その後、宮村牧師は沖縄で病に倒れられたという一報を受けた。しか
し、リハビリの努力で奇跡的に病から回復されたとの通知を受け、東京での「宮村牧師出
版記念会」で笑顔の明るい宮村武夫牧師と再会することができた。福音宣教の闘いの同志
4
である御夫人が傍らにおられ、益々福音宣教の志しをもやしておられる印象を受けた。
本注解書にふれて
本注解書、つまりテサロニケ人への手紙第一、同第二、ガラテヤ人への手紙、ペテロの
手紙第一、同第二の注解書を読み、感想をメモ的に記したく思ったのですが、本書の厳粛
な内容、著者の渾身の著述内容を筆者が安易に要約的に記すことによって、読者がこの注
解書と向き合うのを妨げるような思いがするので、感想は最小限に止めたい。
この注解書は、あたかも講壇から説教を聴くような、現代日本の状況の中に、冷静に、
鋭く、他の聖書注解者たちの注解にも聞きつつ述べられた、宮村武夫独自の注解書なので
ある。文献表を眺めると有力な聖書学者たちと並んで、カルヴァンの聖書注解書も挙げら
れ、確かに宮村牧師はハーバード大学神学部での研鑽の時期に現代批評学の姿勢をおそら
く身につけたであろうが、注解書全体に渗透しているのは、真理を証しする聖書の御言に
即して、教会形成と宣教への委託への責任の一端を担う牧会者として、著者の並々ならぬ
気迫のこもった注解書なのである。
本注解書が、牧師たちの説教準備のときのよき指針の一つとなり、日本のキリスト者
ちがこの注解書と向き合って、使徒パウロの福音宣教の言葉と各自が格闘されるよう願う
ものである。
二〇一八年一月
(2)宮村武夫著作4「福音の力と事実 テサロニケ人への手紙第一・第二、ガラテヤ人へ
の手紙、ペテロの手紙第一」あとがき
聖契神学校校長/鄕見聖契キリスト教会牧師 関野祐二
「徹底的に愛される」
すべてを打ち明ける親友もいなければ、ぞっこん惚れ込む追っかけ恩師もいない。ほめこ
とばよりも心に刺さることばをいつまでも記憶し、それをバネにして独自路線を歩む、そん
な人生だったように思う。人づきあいの悪い、ひねた性格と言ってしまえばそれまでだが、
これが自分なのだから仕方あるまい。時系列に並べるなら、「おまえは冷たい」「荒れた教会
から良い献身者は出ない」「あなたは牧師に向いていない」「高慢だ」「ご専門は何ですか」
などなど。それでもこれまで辞めずに三〇年近くキリスト教界でやってこれたのは、もしか
したら「福音のパラドックス」に望みと期待をかけ、こだわってきたからなのかもしれない。
つまりそれは、「低い者が高くされ、貧しい者が富み、何も持たない者が豊かに与えられる」
という、福音の新しい時代に内包された逆転の法則である(ルカ一・四六―五五参照)。そ
の最たるものが「罪人が義とされる」とか「一方的に愛される」事実だろう。これさえ握っ
5
ていれば千人力。どれ程自分に失望したとしても、人の評価が低くても、そこから立ち上が
ることが出来るではないか。ただし、主イエスにあって、だが。
数年前、ある牧師からこう言われた。「あなたは留学経験がないからいい。恩師がいない
ので、その恩師の考えに縛られず歩めるからだ」。地域教会の平凡な牧師から、都心にある
神学校の責任者へと呼び出されて一五年。当時の校長に「ノンタイトルでもいい。学生とう
まくやっていけそうだから」とおだてられて引き受けたものの、自分に何ら学識がなく、専
門も学位もないことからくる居心地の悪さとの戦いであった。置かれた場所で咲きなさい
との渡辺和子流人生訓、神の摂理の確かさ、自分よりも頼んで来る他者の眼力に信頼すべき
こと、そうした諸要素を組み合わせ何とかしのいで来たが、ないないづくしがメリットにな
るという最近のおだてことばは衝撃であった。珍しく、素直に心に残った。
湿った独白のようになったが、そうした恩師不在の文脈に、宮村武夫師とのかかわりをど
う位置づけようか。孤高の存在すぎて、神学校在籍時代にそれほど個人的なつながりがあっ
たわけではない。尊敬はしていたが、例によって距離を置きたくなる性格ゆえ、自分を売り
込むようなことも、ことさらに「恩師」と祭り上げることもしなかった。しかし、卒業後も
不思議に細い糸はつながり続け、集会や研究会などでお会いする機会に事欠かず、どの人に
もそうなのかもしれないが、深いところで信頼関係が保たれていることを感じた。そんな、
これまでの宮村師とのかかわりを三つにまとめてみようか。それは、原理主義克服のコツを
教えてもらったこと、フィー&スチュワートの解釈学テキストを薦めてくれたこと、そして
聖契神学校チャペルタイムのショートメッセージである。
原理主義の克服、それは校長就任の翌年二〇〇四年から強引に引き込まれた、JEA神学
委員会の取り組みであった。長くなるが、請われてメールマガジンに書いた拙文を以下に引
用しよう。タイトルは「原理主義的傾向を克服するために」で、当時の文脈は、九・一一に
端を発した米国の様相と、それを受けての二〇〇六年二月の神学委員会ブックレット「原理
主義」発行である。文中のM師とは、言わずもがな宮村武夫師のことだ。
『筆者が神学生の頃、尊敬していたM教師が口癖のように言っていたのは、「一部をもっ
て全体と考えてしまう誤りの危険」だった。相手の中に誤りや受け入れ難い点が見えた時、
それをもって相手全部を否定/拒否し、そこに含まれていたはずの真理をも捨て去り、対話
や交流を断ってしまうことへの警鐘であり、同時に自分とは立場の異なる考え方や神学の
中にも、必ず何がしか聞くべき真理が含まれていることを教えることばであった。
筆者の生まれ育った教会と所属する教団は、JEAに属する福音派教会の中でも比較的
幅の広い、多様性に富んだ伝統と気風を有している。かつて新生した前後、当時の福音派
6
教会に吹き荒れた聖書論論争や聖霊論論争の強風にもまれる経験をし、同時に所属教会の
分裂や争いの渦中に置かれた。生まれたばかりの乳飲み子としてはおよそ過酷な環境の中
で苦悶する中、福音的であるとはどういうことか、堅持すべきものとそうでないものの見極
めはどのような基準ですべきなのか真剣に考えさせられたことを、M師のことばは筆者に
思い出させた。そして、母教会と母教団にその一員として置かれた摂理を肯定的に受け止め、
福音的立場を堅持しつつ、決して狭い閉鎖的立場に自らを閉じ込めないようにすることが、
その後の筆者の課題となった。
一九九○年四月、新米牧師として牧会伝道の荒波に漕ぎ出した。それから五年目、所属教
団立の神学校で新約学の科目を担当するよう命ぜられ、新約通論はともかく、新約緒論で何
を教えるべきか思案にくれていた頃、G・ラッド著『新約聖書と批評学』(聖恵授産所出版
部、一九九一年)に出会った。これは、まさにあのM師が力説していた真理(格言?)を、
ラッド教授が新約学の分野でリベラルな聖書批評学を相手に実行した本であり、読み進め
るにつれその画期的内容に心が震えた。曰く、現代福音派の聖書学はリベラル神学から多く
の恩恵を受けており、その事実を知らずにリベラル批判一辺倒と対話の拒否にとどまって
はならない、選択的にその神学的成果を受け入れ、そこから学び、対話を継続し、広い視座
に立って福音的立場をより堅固に構築するべきである、と。この書を軸に、福音的聖書批評
学を学ぶクラスを立ち上げることにしたのは自然な成り行き、いや主の導きであった。
以来、約十年の歳月が流れ、二〇〇四年九月よりJEA神学委員に加えられて、原理主義
福音主義の共通点と相違点を研究調査する機会を得た。携わってみてわかったのは、この
キリスト教原理主義への対応とはまさに、何が本質的事柄で何が枝葉末節の事柄なのか、両
者を峻別した上で受容と対話を継続するセンスを獲得する、そうした全教会的必要性を明
らかにすることだという事実である。筆者が新生した頃、福音派内に存在したあの論争の
数々は、そうしたセンスを身につけるため福音派に摂理的に与えられた、いわば産みの苦し
みだったのではないかと思う。あのM師の格言を活かすべく、新約緒論のクラスを担当し続
ける中、果たして福音派諸教会はそのセンスを地方教会の信徒レベルで身につけて来たの
か、大いに考えさせられる十年であった。
そして昨今の米国を中心とするキリスト教原理主義の問題である。調べてみて驚いたの
は、この問題を正面から扱っている福音派からの日本語文献がほとんど皆無であること(だ
から神学委員会で小冊子を発行する必要性があるのだが)、その結果として当然のなりゆき
とも言えるが、米国直輸入の原理主義的傾向を帯びた文書が、健全な議論や検証を経ないま
ま、諸教会に流布している憂えるべき現状である。そして、主流派(リベラル)による米国
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キリスト教原理主義批判は当然としても、同時に主流派の低迷と凋落への危機感が主流派
内部で高まっており、福音派の台頭に脅威(ある種の敬意も)を抱いていることも、数十年
前では考えられない現実である。よって、今日本の福音派キリスト教原理主義の問題をい
かに扱い、その課題を克服して、健全な福音の拡大と教会の成長にどう寄与するかは、福音
派諸教会に共通に課せられた、重大な責任であると言える。M師の預言的格言は、これから
ますます実行されるべき課題になるのではないかと思う。
変えてはならないのが健全な福音の真理であることは言うまでもない。主流派に属しつ
つ、福音派に一定の評価を与え続けてきた稀な存在である古屋安雄氏は、近著「キリスト教
アメリカ再訪」(新教出版社,二〇〇五年)で、主流派は自己批判をして謙虚に福音派
教会や神学から学ぶことで、キリスト教信仰の確実性を回復しなければ回復の道はないと
の驚くべき主張をしている。その上で氏は、原理主義を克服した福音派が信仰の確実性を保
持しつつ、主流派が志向した社会的関心を継承することのほうが、キリスト教会回復の可能
性としては高いとも付け加え、主流派への失望感を募らせている。その一方、同書で古屋氏
は、福音派キリスト教原理主義をほぼいっしょくたに扱い、ステレオタイプ的批判をして
いるが、そこで挙げられている批判は決して真実そのものでも解決できない課題でもなく、
要はこれからの我々福音派の努力と姿勢にかかっているということである。
キリスト教信仰の確実性の回復が、教会を回復する。まさにこれは福音派が願い、また堅
持してきた確信であり、それを、原理主義的傾向を払拭あるいは克服しつつ実行していくこ
とが、今の私たち福音派に求められている。この機会を逃すことなく歩んでいきたい。』
次は、ゴードン・D・フィー/ダグラス・スチュワート『聖書を正しく読むために[総論]
聖書解釈学入門』(いのちのことば社、二〇一四年)との出会いである。監修者あとがきに
書いたのだが、神学校在学中に宮村師が聖書解釈学クラスで薦めてくれた本書の原書を、背
伸びをし船便で輸入したものの、価値もわからず積ん読しておいたら、結果的に自らの担当
する聖書解釈学クラスのテキストとなり、苦労して作成した粗訳をもとに全訳を依頼し、そ
の監修を引き受けて邦訳書発行に至ったとの顛末。本書との出会いが聖書の読み方、ひいて
は信仰生活のあり方そのものに絶大なる影響を及ぼした。そして、及ばずながら粗訳と監修
にかかわることで、その恵みを多くの方々に分かち合うことまで出来たのであった。宣伝に
なって恐縮だが、詳しくはこの邦訳書を入手し、読んでいただくしかない。
そして、忘れもしないあのチャペルタイムである。二〇〇九年一〇月三〇日金曜夜の聖契
神学校、保存してあった音声を聴き直してみたら、「押しかけ女房のように来ました」と始
8
まる宮村師のメッセージは正味一○分、Ⅱコリント七・一―四からであった。パウロはコリ
ント教会員に「私たちに対して心を開いてください」(二節)と懇願した後、「私には、あな
たがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります」(四節)と
持ち上げ、一六節に至っては「私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せること
ができることを喜んでいます」との驚くべき見解を表明する。これはパウロが先んじて「徹
底的に愛する」ことを実行した証左。四つの神学校で学んだ宮村師は、「私のような者を教
えてくれた先生方は、徹底的に愛してくださった。天地創造から主の再臨に至る救いの計画
の全体像の中に、こんな私もかけがえなきひとつの場所を占めている、そのように主は私を
見てくださる、その神学的な心を先生方から教えられた。教師が心を開いたから自分も教師
に心を開いた。私が徹底的に愛されたことを、今度は私が徹底的に愛することで伝えたい。
それを私は関野校長にしたつもりだ。だからこの神学校で皆さんは、徹底的に愛され、信頼
される喜びを学び、遣わされた地でそれを自ら実行してほしい」と語った。以来、「徹底的
に愛される」とのフレーズが福音の核心として心に刻まれた。生き方と福音が一体化し、そ
れを次の世代へと伝える現場に立ち会い、バトンを渡されたのだ。
宮村師を見ていると、無防備というか、リスクを顧みないというか、子どものような危う
さと素直さで人とかかわり、「徹底的に愛する」人生に徹している。人間的な物差しでは、
決して成功者の生き方とは言えまい。不用意に近づくのはこちらも火傷をしそうで怖い。し
かし、その宮村焚き火の輻射熱には当たっていたい。調子が良すぎるだろうか。
(3)宮村武夫著作4「福音の力と事実 テサロニケ人への手紙第一・第二、ガラテヤ人へ
の手紙、ペテロの手紙第一」あとがきにかえて
あとがきにかえて ―死と生を越えて、お二人の方の支え―
宮村武夫
[1」 序
(1)2015年5月、宮村武夫著作8『ヨハネに見る手紙牧会 その深さ、広さ、豊か
さ』刊行以来3年以上経過して、永田竹司編集長の指導の下、著作集7冊目が刊行されま
した。
(2)本著作は、最初の出発から、困難に直面してきました。
確かに、2009年1月に、著作集刊行の提案がなされ、永田先生が編集長を引き受け
てくださることにより、宮村武夫著作刊行委員会が構成されました。順調に事が進んで、
11月に第1冊『愛の業としての説教』が世に送られ、1月には、出版記念会が予定され
準備が進められたのです。
9
ところが12月に私が脳梗塞を発症3ヶ月入院、最初の大きな困難に直面しました。そ
のさなか刊行委員会からの問いに、「続行お願いします」と明確な君代の応答が起爆とな
り、半年遅れで出版記念会が持たれたのです。
その後、大小の困難に直面しましたが、そのたびに直接間接この営みを支えてくださる
方が起こされ、また、摂理的な展開に導かれてきました。このような支えとなってくださ
った方々の中で、平山正実先生と、私にとって二重の同窓であるディヴィッド・ショラー
先生について報告したいのです。
[2]平山正実先生から二通の手紙
(1)平山先生から宮村へ
以前から高名なお名前を存じ上げていた平山正実先生から、以下の心のこもったお便り
を頂きました。1969年、東京キリスト教短期大学一年生の授業で出会った、坂本(旧
姓・風間)道子姉を通しての主にある出会いです。
「宮村武夫先生
頌主
お手紙ありがとうございます。坂本道子姉との交流を通して、先生とお知り合いになれ
たことを幸いに思います。
先生が、坂本道子姉の群れを今後、本格的に御指導されることを、聞きました時、大変
安心いたしました。今後も坂本姉を中心とする群れが祝福され、生長いたしますよう御指
導お願いします。
このたび、著作集を刊行された由、もし、内容(目次など)わかりましたなら、お教え下
さい。
私は北千住で、開拓伝道を始めて、7年目に入ります。主として、精神を病んだ方々が
中心の礼拝です。
20名前後の小さい群れですが、よき交わりの中にあります。
私達の教会のためにも、お祈りをいただければ幸いです。
今後の御交流、御指導をお願い申し上げます。
2009.9.1
平山正実」
(2)宮村から平山先生へ
私も、平山先生へ沖縄からお便りを差し上げていたのです。距離の隔たりを越えて、主
にある交わりが深められていったのです。
10
「平山正実先生
頌主
嬉しいお便り、感謝します。
坂本道子姉は、1969 年TCC で私が最初に教えた一年生のクラスの一員でした。
主にある導きのなかで、同労者として、宇都宮キリスト集会に仕えることが許されている
こと、大きな恵みです。
今回の著作集刊行の計画、三位一体なる神様からの全く一方的な思いを越えた恵みです。
同時に、主にある兄姉の多様な愛を身に受けている事実を深く自覚させられております。
国際基督教大学ICU)の永田竹司先生が、編集長を引き受けてくださっています。
永田先生は、東京キリスト教短期大学専攻科で私が最初に教えたクラスの一人で、卒業
後私の母校ゴードン神学院で学び、プリンストンで新約の学位を取られ、ICU で教え続け
てこられました。
1986 年4 月にそれなりの決意で加わった首里福音教会を、思いもよらない経過で離れ、
また20 代の初めから半生を注いだ日本新約教団が合同しました、日本福音キリスト教会連
合の群れからも退きました。Ⅱコリント1 章3−11 節。
しかし、こうした中で、あの旧約の詩人が経験した恵みの事実は、ささやかな規模で私
ども二人の経験ともなりました。
「苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。
主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。」
そうした中での著作集刊行の計画が導かれているのです。
昨夜、中嶋聡愛兄と二人の学びの会を、中嶋兄が招待してくれた、ホテルの和食を頂き
ながら、持ちました。主にある至福のときでした。
中嶋兄は、20 年来、私の躁鬱の主治医であり、もっとも激しく宣教に内的に応答する、
私の「愛する医師ルカ」(コロサイ4:14)の一人です。
著作集刊行の計画実行と平行して、私のうちに示されている、「残された生涯のテーマ」
についてです。レジメを同封させて頂きます。
平山先生の9 月の日々の上に、祝福が豊かにありますように。
忍耐と希望をもって(ロ−マ8 章25 節)。
宮村武夫・君代」
11
その後、平山先生から以下の忘れることのできないお便りを頂くことになり、著作集発
行についての深い支えとなりました。
(3)平山先生から宮村へ
「宮村武夫先生
頌主
坂本道子さんを介し先生のことは、よくお聞きし、御尊敬申し上げております。先日
は、先生の御著書について、御案内いただき、ありがとうございました。
私は、五月末、難治性のがんが発見され、現在、入院中です。先生の大著を読みつづ
ける気力はもうありません。しかし、先生のお仕事は、日本のキリスト教の歴史に残ると
考えます。そこで、大学の研究費を使って、大学図書館扱いで購入してはどうかと考えま
した。聖学院大学ゼネラル・サービス(KK)飯塚さん(埼玉県上尾市戸崎1−1)にそちら
の出版社の方から御連絡いただき、平山(公用)購入図書として、大学ゼネラル・サービス
宛にお送りいただけないでしょうか。よろしくお願い申し上げます。
今後共、どうぞよろしく御指導下さい。
平山正実
2010.7.9」
平山先生が召された後、先生の思いを込めた遺書ともいうべき著書『死と向き合って生
きる―キリスト教と死生学』を、私の表現でいえば、味読・身読したのです。確かに、平
山先生は召されました。しかし、死を越えて主にある交わりの継続を実感します。その中
で、聖学院大学の図書館に受け入れていただいた著作が語り続ける、小さな、しかし深い
手応えのある経験をさせていただいています。
★注「宇都宮キリスト集会と私」(宮村武夫著作1愛の業としての説教279〜286
頁)
[3]ディヴィット・ショラー先生の存在と支え
(1)ゴードンからハーバードへの一つの流れ
1961年夏、日本クリスチャン・カレッジ4 年生の時、軽井沢で開講された黙示録集
中講義に参加。講師であるホイートン大学のテニー先生は参加した私たち一同に、著作を
通してだけでなく、直接人格的に深い感銘を与え忘れがたい思い出となりました。
あのテニー先生が、私が知る限り、ゴードンからハーバードへ進む新約学徒の先達でし
た。
今回、心のこもった巻末エッセイで関野先生が詳しく説明してくださっている、G.
12
ラッド先生は、私と約30年の年齢差があります。先生はゴードンカッレジとDivinity
School 両方で学び、ハーバードへ進んだ方で、カナダ生まれです。
ラッド先生の代表的著作、 A Theology of the New Testament の精読を中心に、私
は、キリスト神学校の新約神学の授業を展開しました。私たちが手にする新約聖書の構造
を、そのまま自らが理解する新約神学の構造とする、一見素朴に見えるラッド先生の著作
の深さと豊かさです。新約聖書の多様性と統一性の両面を視野に入れることのできる視点
の利点を私なりに強調してきました。ある時期、くる年もくる年もこの営みを継続しまし
た。
ただ1つ、ラッド先生の大切な著作に、私なりの留保があります。それは、G・ヴォス
先生が新約神学の歴史において占める位置を、ラッド先生ご自身が認める以上に、私自身
は深く広いと確信し、その重要性をはるかに強調する点です。
1971年3月、上智大学大学院神学修士課程を卒業するまで数年間、ペテロ・ネメシ
ェギ先生から個人的・集中的ご指導を受けたのは、文字通り主にある恵みです。受けた恵
みの1つは、G・ヴォスの聖書神学の源流と呼びたい、エイレナイオスとの出会いです。
エイレナイオスの持つ、聖書全体を有機的に見る解釈方法の重要性を把握、提示し続け、
後進の本格的研究を期待してきたのです。
上智卒業後も、年月やハンガリーと沖縄の距離的隔たりを越えて、ネメシェギ先生との
文通を通して、主にある交わりは続けられたばかりでなく、深められました。
特に、2011年5月、25年振りに沖縄から本土に戻り、2013年には、思いを越
えて10月25日に、卒業以来初めてネメシェギ先生と再会また講演会出席。続いて10
月30日に2度目の講演会にも出席したのです。
次に挙げたいゴードンからハーバードへ進んだ先達の一人は、私自身がその学識の深さ
に驚きをもって学んだ、若き日のW.レイン先生です。先生は、ゴードンで学んだ後、ウェ
ストミンスターのストンハウス先生の下で訓練を受け、その後ハーバードに進みました。
そして、今回特別に強調したいディヴィット・ショラー先生です。ショラー先生は、ゴ
ードンとハーバードで私の2年先輩です。
私は若き日のショラー先生の励ましと支えを受け、1966年から67年の1年間で
ThM コースを終えることができました。ショラー先生の温かい心と細部にわたる手抜かり
のない助けなくしては、新約学セミナーを中心とした激しい1年間の生活に耐えること
は、到底できなかったと、今でも感謝しています。
ショラー先生は、ゴードンに来る前、ホイートンでテニー先生のもとで学び、ゴードン
では上級生として、下級生の初級ギリシャ語コースをすでに担当していました。
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小さな1つの流れのように、ゴードンからハーバードへ進む新約学の学徒が、現在とは
比較にならない小規模な神学教育機関ゴードンから起こされ、聖書そのものを愛する生活
態度と知識で、ハーバードでもそれなりの評価を受けていたのです。
私も、その歴史の流れの末端にいる立場を自覚しています。
特にソルボンヌを卒業、ゴードンでテニー先生にギリシャ語を学び、ハーバードで組織
神学・教理史の分野で学位を取られた、スイス人の恩師ニコール先生の指導を、先生が9
0歳を越え、愛する主のもとに召されるまで受け続けた恵みを、今も心から感謝していま
す。
(2)ショラー先生が永田先生をプリンストン神学校へ推薦
私にとっては、一つの驚きと感謝です。私が、1969年4月、東京キリスト教短期大
学専攻科で最初に教える恵みにあずかった永田竹司神学生が、ゴードン神学校とコンウェ
ル神学校が合併したゴードン・コンウェル神学校の第一期生となったのです。そこで、ハ
ーバードで学位を授与した、あのショラー先生と出会い、「わたしが新約聖書学を専攻
し、さらにプリンストン神学校で学位修得の道を歩むことに繋がった。プリンストン神学
校在学中にもわたしを宮村先生は訪ねてくださった」(宮村武夫著作集5『神から人へ・
人から神へ 「聖書・神学」考』330頁)と永田先生が記されている出来事が生じたの
です。
ショラー先生がハーバードでなくプリンストンを永田先生に推薦したと永田先生に初め
て聞いたとき、私はその意図が十分理解できませんでした。しかし、永田先生の生涯の歩
みを見るとき、ショラー先生の推薦は正解であったと納得するのです。
(3)ショラー先生(David Scholer、1938–2008)の生と死を越えて
ショラー先生は、ゴードンから始まり、その後二つの神学校で教え、最後に1994年
から2008年までラッド先生と同様フラーの新約教授、しかも末期がんの身をもって聖
書のメッセージを伝え切ったのです。
① 女性教職について
ショラー先生が36年にわたる四つの神学校の教育で一貫して教え続けてきたコースが
あります。そうです、”Women and Ministry in the New Testament and the church
Today”です。福音書の注意深い研究とパウロ書簡の豊かな研究に基づく授業です。婦人
は教会では沈黙を保つべきとの主張に対して、ショラー先生はアメリカンバプテストの教
職者として、女性が教会の働きに全面的に参加すべきと教え続け、個人的な指導とともに
女性教職者の道を歩む学生が起こされたのです。
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ショラー先生の聖書に固く立つ女性教職者についての提言の一貫性は、時代的背景や教
派的背景の中で顕著です。
② ショラー先生召天までの6年半
ショラー先生は、1994年から2008年までフラー神学校で顕著な研究と教育の働
きをなし続けて来ました。特に、最後の6年半はがんの発症と治療の中でなし続けられ、
授業を聴講した学生や同僚教師、さらに地域の新聞などを通して深く広い影響が及びまし
た。ショラー先生特愛のローマ書8章、特に38、39節「・・・」を身をもって伝えた
のです。
愛に満ちた神様は、悪の作り手でも、原因でもない。神ご自身は、我々と共に苦しみ、
聖霊ご自身はうめきをもってとりなされる。主イエスは、友人ラザロの死に当たり、断腸
の涙を流された。このようにショラー先生は伝えております。
永田先生から頂いた大切な二枚のCD があります。一枚は、2008年フラーの卒業式
におけるメッセージ・ショラー先生による最後のメッセージです。Ⅱコリント4章7節に
基づく土の器としてキリストを宣べ伝える生活と生涯への呼び掛けです。
もう1枚は、パサディナ第一バプテスト教会における説教「がんとの闘いと信仰
(Living with Cancer)」です。
[4]集中と展開
平山先生とショラー先生は、ご両人の生と死を通して、著作集誕生の支えとなり、その
存在の意味について励ましてくださっています。
私にとって、平山先生のご配慮によって、著作集が聖学院の図書館に所蔵されている事
実は、小さくない励ましです。
ショラー先生は、永田先生と私と両名の生涯に深い関わりを持ちつつ、本著作集を底か
ら支えてくれています。そうです、ショラー先生は、永田先生と私を通してばかりでな
く、本著作集を通しても、日本の教会に語り続けてゆかれます。その事実を覚えて、ショ
ラー先生への感謝を新たにするのです。
[4]祈りと協力のお願い
(1)主日礼拝を中心に。2018 年6 月、7 月
主日礼拝宣教、講演会担当など可能性や希望があればご連絡くだされば、うれしいです。
主日礼拝・他
6 月 3 日 日本キリスト福音教会連合 足立キリスト教主日礼拝
夕方 パウロ会(両親の記念会、親族の交わり会)
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10 日 ちいろば聖書集会主日礼拝宣教担当 前期聖書塾 ②
17 日 グレイス宣教会東京チャペル主日礼拝担当
24 日 千葉県酒々井三上宅主日礼拝宣教担当
7 月 1 日 宇都宮キリスト集会in 小岩
8 日 ちいろば聖書集会主日礼拝宣教担当 前期聖書塾 ⓷
15 日 グレイス宣教会東京チャペル主日礼拝担当
22 日 小岩栄光キリスト教主日礼拝出席
29 日 グレイス宣教会東京チャペル主日礼拝担当
(2)著作・執筆活動を中心に
著作集在庫分の販売や的確な贈呈を通し積極的な活用を目指す。
既刊6巻(7巻品切)の購入希望の方は、宮村にご連絡ください。
支援のためには、198-0042 青梅市東青梅6−11−8鮫島茂宅 宮村武夫著作刊行会
0150−2−290448をご利用ください。
(3)宮村夫妻支援方法
宮村夫妻の宣教活動を祈り支援くださり深い励ましです、感謝します。
経済的支援は、郵便振替 振替口座番号 00240‐0‐82660
ゆうちょ銀行 普通預金 店番018 口座番号2092174 をご利用ください。
(4)クリスチャントゥデイについて
事務所 〒101-0032 東京都千代田区岩本町2-13-6 ミツボシ第3 ビル4 階
03−5829−4627、来訪歓迎。宮村は、原則水曜と金曜事務所に出かけます。
宮村携帯電話 o9o-3323-2206
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(5)宮村武夫自己紹介
1939年1月21日 東京深川生まれ、開成高校時代 キリスト信仰へ導かれる。埼玉寄居、東京
青梅、沖縄首里の教会牧会。その間、3神学教育機関と1大学で教育に従事。
現在、宇都宮キリスト集会・ちいろば聖書集会牧師、クリスチャントゥデイ論説主幹兼編集
長、名護チャペル協力宣教師。宮村武夫牧師5 分間メッセージを、毎日ブログ、Facebook
Youtube で発信