メーベル・フランシス宣教師の思い出

メーベル・フランシス宣教師の思い出

私が女性宣教師や牧師に、深い尊敬を持ち続けているのは、私の歩みにおいてであった実際の経験が大きく影響しています。
 そうした方々の一人が、メーベル・ルース・フランシス(Mabel Ruth Francis、1880年 - 1975年)先生です。
 その生涯については、「1880年アメリカ合衆国ニューハンプシャー州の牧師の家庭に次女として生まれた。ゴードン聖書学校とナイアック宣教師養成学校で学んだ。1909年にクリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスの宣教師として来日する。広島に行き日本語を学び、広島、庄原、福山、松山を中心に、1960年まで活動した。」と、例のWikipediaで簡潔に伝えられています。特に目を引くのは、先生の日本宣教に留まり続ける一貫した姿勢であり実践です。
 戦前においては、「1929年の世界恐慌の際には、ほとんどの宣教師が理事会の決定に従って帰国した。しかし、メーベルは日本に留まる。」と伝えられているのです。
 何よりも日米開戦に直面した際の決断であり、戦時の生活です、「本国より帰還勧告がなされたが、日本に留まる。日本で、妹のアン・デビンダルフ宣教師と共に東京で抑留生活をさせられた」のです。
 フランシス先生同様、戦争中も日本に留まった、アッセンブリーの女性宣教師の歩みについても胸を熱くしながら話しを伺ったことがあります。

 戦後、フランシス先生が、現在の日本センド宣教団の最初期において、いかに貴重なてびきや助けをなさったか、当時の若い関係者から直接お話を聞き、忘れがたい印象を受けました。

 しかし、何といっても、あの時のフランシス先生との出会いが私の記憶に焼き付いています。
 それは、一度引退された先生が、やむにやまれず日本を訪問、各地で、内住のキリストについて語る力をなさったときのことです。
 その際、国立時代のTCCのチャペルでも証をされました。私は授業担当日で、チャペルに出席していました。話が終わった時点で、私は思わず立ち上がり、心からの拍手を始めました。それに圧倒されたのでしょうか、かなりの方々が、歴戦の老婦人宣教婦人師に敬意の拍手を合わせてくださいました。

 実は、その出会いの背景があるのです。
さらにその時より何年も前、私が開成を卒業前後、万代恒雄先生の四国松山における開拓伝道のお手伝いに飛び出した時期、松山地域で、フランシス先生方の戦前からの御働きを伝え聞き、また遠くからお姿を拝見したこともありました。
 勿論、その頃はゴードンつながりで、先輩後輩の縁で結ばれるとは夢にも思いませんでしたが。