ルツの神

ルツの神
 
 私たちの現実、そこでは私個人にお構いなしに、社会の大きな歯車が回転し続けているように見えます。新聞の三面記事はともかく、一面の記事は私個人とは関係のない別世界であるとの感じがします。私ひとりの存在など、文字通り無に等しい、これが平凡な毎日を繰り返しているお互いの実態ではないでしょうか。こうした日々の中で、聖書を読み、ルツ記を味わうのです。

[一]ルツ記の物の見方
 ルツ記の最後の箇所四章13節から22節の部分、全部で18節ある中、5節は系図です。聖書に出てくる系図、これは一見全く無味乾燥なものに見えます。多くの場合十分注意を払わず、読み飛ばし読み過ごしているのが私たちの実状です。しかし聖書の系図は、神の救いの確かさを物語る大切な表現方法です。それ以外の言い回しでは、どうしても言いたいメッセージを伝達できない特徴ある書き方と受け止める必要があります。ルツ記についても、この系図こそルツ記理解の鍵と言っても過言ではないでしょう。なぜなら、聖書の中でも個人に的を絞っている書の代表と思われるルツ記がいかなる視点から描かれているか、この最後の系図は明らかにしているからです。
 そうです。ルツ記はルツ個人に焦点を合わせていますが、それはルツその人自身に興味を持つからだけではなく、ルツがこの系図に一定の役割を果たしている事実に基づくためと思われます。このルツ記の視点に注意を払うとき、ルツ記の主題は、神の救いの歴史において個人がいかなる位置・役割を担うかの課題であることが浮かび上がります。一言で言えば、全体の中での個の大切さです。
 私たちは、様々な組織の力が個人の善意も意志もみな飲み込んでしまうように見える管理体制の中で生きています。個人の尊厳とか役割とか考えたり主張したりすること自体、土台無理だと諦めやすい状況です。可能な道は、全体から自分を切り離し、他の人々から孤立して生きる道だけだ、ともすればそう思い込んでしまいます。
 しかし他の人々との結び付きを断つ生きかたがいかに空しいものであるか、私たちはよく知っているのです。こうしたジレンマに陥っている私たちに、ルツ記の著者は全体における個の大切さについて深い洞察を示し、私たちを慰め、自らの戦いを勇気をもって戦えと励ましてくれています。

[二]個人の尊さと役割
 では、ルツはどのような役割を担い果たしているのでしょうか。ルツ記四章18節以下の系図を少し詳しく見たいのです。まず18節には、 「ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン」とあります。このペレツは、「主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」(12節)と記されているように、ユダとタマルの間に生まれたのです。彼の誕生の次第がただならぬものであったことは、創世記三八章が示している通りです。しかしこの人物の系図から、22節に至って明らかなように、エッサイの子ダビデが生まれたのです。ですから、ペレツの系図ダビデ系図であり、さらに、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図」(マタイ一章1節)へと展開していくのです。 
 そしてイエス・キリスト系図は、時代を貫いて進展する神の救いの歴史の確かさを証言しています。このイエス・キリスト系図の一端が、ペレツの系図またダビデ系図として、ルツ記四章18節から22節に記されているのです。
 では、ルツは神の救いの歴史の流れの中でどのような役割を果たしているのでしょうか。「ボアズの子はオベデ、オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデ」(21、22節)と続く当時の公の系図には、ルツの名前は全く登場して来ません。しかし、「ボアズの子はオベデ」と救いの歴史が進展し展開するためには、公の系図の表面には全く出てこない無名のルツが彼女なりに決定的な役割を果たしている事実を、ルツ記の著者は見過ごさないのです。そしてルツの姿を生き生きと描いているのです。このルツ記の描写が、マタイの福音書一章5節に見る、 「ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」との宣言の根拠であると考えるのが自然でしょう。 
 公の系図には名の出で来ないルツと言う女性が、実際にはどのように神の救いの歴史の進展において彼女なりの役割を果たしているのかをルツ記の著者はルツ記一章から四章に渡り念入りに美しく描いているのです。ここに描かれているルツの生き方から幾つかの点を学びたいと思います。

[三]ルツに学ぶ
(1)ルツの選択について
 まず第一章に見るルツの選択について思い巡らしたいのです。ルツは、姑ナオミとの生活を通して生ける神を信じる信仰に導かれたと思われます。
 「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように」(一章16、17節)と、信仰告白をなしている通りです。しかしナオミの生活・生涯はどのようなものだったでしょうか。飢饉のため、家族で故郷を後にしなければならなかったのです。しかも異郷の地で、夫を失ってしまうのです。しかもそれだけでなく、苦労して育てた二人の息子も、やっと一人前になりそれぞれ家庭を形成しそれなりの落ち着きをもって生活し始めたと思っていたのに、次々と死んでしまうのです。ナオミの家庭に次々と災難が襲って来たのです。それは、「全能者が私をひどい苦しみに会わせた」(1章20節)とナオミ自身が断じている程のものです。家内安全、商売繁盛的な信仰へ導くような魅力は何もなかったと言ってよいでしょう。そうした現実の中で、ナオミと共に生活し、一部始終を見聞きしているルツが、ナオミの信じるイスラエルの神は真の神であるとの信仰へ導かれて行ったのです。そこには、自分を中心に物事を判断し、利害関係で凡てを決定して行くあり方とは違う姿勢を見ます。言わば、神が神であるから信じるのです。これこそ、ルツの信仰です。このルツの信仰が、一章に見るルツの選択の源です。ルツがこのような信仰告白に導かれるに当たり、外ならないナオミの生活と生涯が用いられているのです。神が用いなさったのは、「全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから」(1章20節)と本人が断定している者の生活であり、生涯なのです。そこに見るのは、一方的な神のあわれみであり、恵みなのです。誰を通して信仰の継承がなされるのでしょうか。私たちも自らの姿を見て苦しむばかりでなく、あわれみと恵みに富む神がこのような私たちをも用いて信仰の継承をなし給うことを感謝するのです。

(2)ルツの日常生活
 次に注目したいのは、二章に見るルツの日常生活です。この箇所に描かれているルツの姿は、例えば、
 「ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集め」(3節)とか、
 「ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています」(7節)とか、 「こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった」(17節)、さらに、
 「彼女はボアズのところの若い女たちのそばを離れないで、大麦の刈り入れと小麦の刈り入れの終わるまで、落ち穂を拾い集めた」(23節)と記されているようなものでした。ここに見るルツの日常生活の基調は、与えられた務めを日常生活の中でコツコツ果たし続けて行くそれです。一章に見る生ける神への信仰に基づく決断をなし、新しい歩みを始めたルツの実際的生活、それは自分が置かれた生活の場で義務を忠実に果たし続けていくものなのです。義務が中心です。そうです、義なる務めです。日常生活における繰り返しを通して果たされて行く、ルツにはルツとして、私には私として与えられた務めです。この務めを倦まず弛まず果たして行くのです。マンネリを恐れず、この日常性の中に徹することが、ルツの日常生活であり、私たちの生活・生涯なのです。この現実のただ中で、ルツの神の御計画はルツを通して、そして私たちを通してすら実現されて行くのです。ルツの信仰の決断は、日常生活の中で実を結びます。平凡に見える日々の繰り返しは、その根底に生ける神に対する信仰がある故に、意味深い営みとして全力を注いで悔いのないものとして受け止められているのです。

(3)無名のままに
 ルツ記を通して、ルツの生活・生涯が生き生きと描かれています。しかし、「ボアズの子はオベデ」(四章21節)とあるように、結局ルツは公の系図に関する限り、文字通り無名の人物であったのです。公の系図には、ルツの名は出て来ないのです。この無名に徹するルツを通して歴史が進展して行く事実を心に刻み付けたいものです。このルツが、「ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」(マタイ一章5節)とあるように、イエス・キリスト系図に位置を与えられているのです。イエス・キリスト系図は、主イエスの恵みによって切り開かれ未来に展開して行く神の歴史の豊かな広がりを指し示します。聖書の系図は、「アダムの歴史の記録」(創世記5章1節、協会訳では「アダムの系図」)との表現が明示しているように、過去とのかかわりにこだわり縛られるのではなく(アダムの父母はおらず問題にならないのですから)、そこから新しく展開する神の恵みの豊かな広がりが中心です(参照ヨハネ福音書9章1節以下の弟子と主イエスの会話)。そうです、神の国の豊かな広がりの中に、ルツの個性豊かな歩みがそれなりに貴重な位置を与えられているのです。

[四]結び
 聖書の神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」としてご自身を現して下さいます。アブラハム、イサク、ヤコブの生活・生涯との深い関係でご自身を示してくださいます。そして、アブラハム、イサク、ヤコブの神が、ルツの神です。ルツの生活・生涯を通して、ご自身がどのようなお方であるか明らかになさるのです。ナオミの神は私の神とルツが信仰の選択をなしたように、私たちもルツの神が私たちの神と信仰告白をなしつつ、この自覚にふさわしい生活と生涯をもって神の恵みに応答したいものです。ルツ記の著者の眼差しを通して、ルツにそして私たちに注がれている神の恵みの視線を身に感じながら、人間疎外の荒波の中で、人間らしく、私らしく生かされたいものです。主日礼拝ごとに、ルツの神が私の神と共々に告白しつつ、ルツの生活と生涯を私たちなりにたどり礼拝の生活を重ねたいものです。
 ルツの神こそ、ルツをルツらしく生かすお方です。ルツの神こそ、私を私らしく生かすお方です。私のような者をもルツの系図、いや「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図」(マタイの福音書1章1節)に組み込み、私の過去にもかかわらず、新しい恵みの中に日常の営みを始め、続けること許して下さるお方です。しかもそれは、他の人々と切り離された孤立した歩みではないのです。私のナオミとの出会いの中で営まれる生活です。私のボアズとともなる生涯です。ルツの神を信じ仰ぐ私たちも、日常生活で接する人々、生涯で出あう方々に真実をもって答えたい。「あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています」(三章10節)とボアズに言われたルツのように。真実の源は、神ご自身です。一度約束なったことを違わず、結ばれた契約関係を必ず守り抜く、神の真実(失敗することのない愛との訳に教えられます)こそ、すべての基盤です。結局、信仰とは、神のご真実を仰ぎ望むことです。そして信仰の生活・生涯とは、私なりに私のナオミに、ボアズに真実を尽くそうとの営みではないでしょうか。ルツの神を私の神と告白しつつ。ルツの神のご真実を仰ぎ望みつつ希望と忍耐をもって前進し続けたい。本当の意味で勇敢な生涯の歩みを進めたいものです。