『新旧約聖書を貫く三本の柱』 再録

『新旧約聖書を貫く三本の柱』 再録

恵の聖句 「私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒の働き20章27節)

[1] 序
 「最初の教父」とも呼ばれるエイレナイオス(生年は140年から150年の間とされる)を通して教えられた、からだの大切さ、旧約聖書新約聖書の一貫性と進展性、さらに旧新約聖書を一貫する三本の柱について報告いたします。これもまた、日本センド派遣会総主事・誰でも人間・私(真の自己・私理解)として歩む基本的姿勢を左右しています。

[2]『新旧約聖書を貫く三本の柱』
Ⅰコリント15章50節
(1)エイレナイオスとの出会いは、開成高校聖書研究会でのキリストにある友人・吉枝兄に紹介された学びの場・日本クリスチャン・カレッジ(現東京基督教大学)と切り離せない。
1962年4月、吉枝兄に一年遅れて日本クリスチャン・カレッジを卒業。4年間の留学(ゴ−ドン神学院、ハ−バ−ト神学部)後、埼玉の寄居キリスト福音教会牧師に復職し同時に、1969年から母校で授業を担当。
最初に受け持った授業のひとつは、『聖書解釈学』。聖書をどのように読むか方法論を課題とするものでした。この授業を毎年続ける中で、年とともに聖書解釈の歴史に時間を割くようになったのです。
 新旧約聖書を読み味わい、聴従して来た約2000年の教会の歴史の中で、自分が置かれている位置をしっかり確認し、その立場で与えられた責任にどのように応答して行くかを課題としたのです。
この課題のため、注目すべき先達がエイレナイオスです。

(2)Ⅰコリント15章50節を論敵は根拠に
 「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15章50節)を口実に、エイレナイオスの論敵たちは主張します。「血肉のからだ」、つまりからだは神の国を相続できない、救いの対象ではない。それゆえからだをどのように用いても救いに関係ないと勝手気ままな生活に走ります。
 全体から孤立した聖句を口実に、物質を悪と見、からだを蔑視する考えをあたかも聖書の教えであるかのように主張し人々を惑わす論敵にエイレナイオスは鋭く対決します。
そうです。エイレナイオスは聖書を貫く三本の柱に注目し聖書全体の雄大な展開を視野入れながら、特定の聖句の意味を深く豊かに汲み取ります。

(3)三本の柱
①天地の創造者と天地万物
 創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」
 目に見えないものも見えるものも、その全体を、創造者なる神が創造し、保持なさっているとエイレナイオスは強調。それゆえ目に見える万物の全体が、神の創造のみ業であり、また救済の歴史にその場を与えられていると雄大な広がりに信仰の目を開くのです。

②御子イエス受肉の事実、真の神にして真の人
 ヨハネ1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
 「子は受肉し、人となった時、人類の長い伝統を自分の中にまとめ、総括的に救いを私たちに与えた」(『異端駁論』三・18・1)。
 からだをふくむ人間の全体、その意味で真の人となられたのです。それはからだを含む私たちの全存在が救いに与るため。

③からだを含む全人格・全人間
 人間をからだと魂、霊を分離してしまうのではない。からだを含む全存在が、聖霊ご自身の導きのもとに導かれ、父なる神の意志を行い、キリストの新しさへと新たにされる。

(4)結び
孤立聖句主義←→聖書全体を視野に入れつつ、その各部分を正しく、深く、豊
かに味わい・解釈する責任と喜び。
聖書全体というとき、旧約聖書新約聖書の両方を視野に入れ、特にその二つの関係に注意する。
旧約聖書新約聖書の一貫性について
一粒の種、それが植えられ、10センチ、1メートル、10メートルの木となっても、同じ生ける存在として、互いの成長段階どうしが矛盾することなどはない。
同様に聖書全体も一つの有機体として、相互に矛盾などしない。しかも一つの有機体として、旧約から新約への美しい進展を見る。特に主イエス受肉聖霊降臨を中心として。

②全人類の歴史とのかかわりの中で、神の民の歴史。さらに天地万物を常に意識
しつつ、神の民全体の歩みを視野に。参照「からだの贖われること(ロマ8章23節)。
 使徒信條において、「罪のゆるし」と「とこしえの命」の間に、「からだのよみがえり」が、位置していることの重大な意味

③このような雄大な救いの歴史のなかで、人間・私の小さな小さな歩みも見るべき。
その時、この持ち場・立場で忍耐と希望に満たされ生きる使命の自覚とその遂行。