1967年秋、埼玉寄居で出会った女子高校生と、主にある協力ますます

1967年秋、埼玉寄居で出会った女子高校生と、主にある協力ますます

★「この前の市の追悼式で遺族代表・三條すみゑさんの言葉です。」と、あの女子高校生だった大野悦子姉を通して遺族代表の言葉が伝えられています。

「貴重な東日本大震災から本日で七年が経ち、震災で何ものにも代え難い大切な御家族や関係者を亡くされました御家族の皆様に、心から御冥福をお祈りし、哀悼の意を表します。
 震災から七年が経っても、私達家族は東松島市のみなし仮設のままです。未だもう住むことの出来ない石巻市長面の住所のまま七年が過ぎました。あの震災がなければ長面で一生を終えていたと思います。この震災は、多くの人の人生や生活を激変させました。
 まさか自分が避難所生活をするなんて思ってもいませんでした。中学校の体育館には、避難してきた方が三百名ほどいました。プライバシーも何もない生活、毛布は、二人で一枚、水道も電気もなく、体育館の中に石油ストーブが二台。一日の🍙食べ物は、固くて冷たくて味がしない具のないおにぎり一個と五百ミリリットルの水のペットボトル一本でした。紙コップ一個と、割り箸一膳は、何回も使用するので名前を記入しました。三月十三日から二ヶ月間私達は、中学校の体育館に御世話になったのです。

 津波から逃れた人達が山の上で救助を待っているとの情報があり、三男泰寛も山に避難していると信じていた夫は、仙台の大学から四時間かけて自転車でやって来た次男と共に、救援物資を持って道なき道を行き、寸断された道は舟で渡り、山伝いに数時間かけて、その場所に辿り着く事が出来たそうです。
 山に避難していた人達から、津波の後に山から下りて数人の遺体を並べたと伝えられた夫は、その中に三男泰寛がいたのを確認し、体育館で待っている私に連絡をくれました。避難所の中では声を出して泣くことも出来ず、その夜、夫と二人毛布にくるまって声を殺して泣きました。
 次の日、長男がやっとの思いで私達を探して体育館にたどり着いたのですが、弟の死を知り体育館の外で号泣していました。忘れもしません。不明者届を三月十四日の死んだ息子の誕生日に出すなんて…。平成五年生三月十四日生まれ満十八才に三日ほど足りなかった息子。何で逃げなかったのだろう、何で、何で、悔やまれます。ついさっきまで身の回りにあったすべてのものを一瞬で無くし、そのあまりの喪失感に押しつぶされそうになった私。私と一緒にいたら息子は助かっていたんじゃないかと自分を責めていました。その思いはやはり体験した人しか分からない、壮絶な思いです。
 当時を振り返りますと、震災で亡くなられた親戚、知人の悔やみ返しのハガキが1年間で五十七枚ありました。
 夫と二人でできる限り葬儀に参列したのですが、考えられない異常な数です。七年も過ぎると、あの震災を忘れたかのような生活をしている人がいます。あのような経験はもう二度と起こしてはいけない、私に何か出来ないか?だんだんその思いが強くなり、去年からボランティアで語り部のお手伝いをしています。お陰様で様々な職種の方々と知り合い、交流を持つ事が、私の心の傷を癒やし、生活に張りをあたえてくれています。とても感謝しています。津波で広範囲が浸水し、人が住めなくなった長面地区で「この周りには町があり暮らしがありました。」離れてみて初めて自分が住んでいた所の良さが分かりました。山、川、田んぼ、畑、海があり四季折々の景色、海の幸、山の幸があり、地域が皆顔見知りで、どこへ行くにも玄関にカギなどかけたことがなかったのが当たり前でした。住めるのであればまた住みたいです。それはもう叶わない夢になってしまいました。自分が住んでいた場所で語り継ぐことが大事なんだと訪れた方々が口々に言ってくれました。復興も少しずつ進んでいます。私達家族も集団移転先が決まり、今月末に上棟式を迎える事になりました。亡くなった息子の誕生日月に着工となり因縁を感じます。集団移転先は、雄勝、北上、河北の旧三町の被災者が一緒に住むことになります。楽しみより不安がいっぱいです。新しい土地でうまく生活出来るか?
 でもようやくみなし仮設から脱出できるのです。ここで私がお話しさせて頂いたのはたった一つの家族の出来事です。私よりももっと辛く大変苦しい想いをされた方がたくさんいらっしゃると思います。辛いとき、苦しいときでも顔を上げて一生懸命生きていくことが亡くなった息子泰寛に対する私の想いです。いつも一緒に息子の写真をサイフに入れて持ち歩いています。
 大川小学校は、私達家族の母校です。たくさんの思い出や楽しかった思い出がいっぱい詰まっています。その大川小学校も今年三月いっぱいで閉校を迎えました。全国、全世界から被災地に心温まるご支援やご協力をいただき本当に有難う御座います。感謝でいっぱいです。東日本大震災が残した傷あとはあまりにも大きく深いものでした。この経験を語り継ぎ、同じような悲しみを繰り返さない為にも正しい情報に基づいて行動すること。これこそが自分自身の身と大切な家族を守ることにつながると思います。命があればなんだって出来ます。
 本日ここにご参列の皆様にはどうぞご自身のからだを大切に健やかな毎日を過ごされますよう、心よりお祈り致しまして遺族代表の言葉に代えさせて頂きます。平成三十年三月十一日遺族代表三條すみゑ」