2000年11月1日 東京キリスト教え学園創立記念礼拝メッセージ 『保線夫として』 申命記三章1節〜11節 宮村武夫 その3
2000年11月1日
東京キリスト教え学園創立記念礼拝メッセージ
『保線夫として』
申命記三章1節〜11節
宮村武夫 その3
★保身でなく保線、ホーク学長が提示し、私が従った道
[3]先輩保線夫、ドナルド・E・ホーク先生に学ぶ
キリスト教学園の過去を保線夫という切口から回顧し、保線夫的生き方の視点から見て行くとき、一人の先達保線夫の姿が浮かび上がります。この方から学んだ、また学びつつある小さな経験を証したいのです。 先達保線夫、その名はドナルド・E・ホーク。皆さんのお手元に配られている、創立記念プログラムの「学園の歩み」(概略)には、「1955年4月、宗教法人ゼ・エバンジェリカル・アライアンス・ミッション立として、各種学校、日本クリスチャンカレッジ開学」との記述の後に、「校長:D・E・ホーク」と記されている人物です。同じく「学園の歩み」には、「1966年4月東京キリスト教短期大学設立」に続き、、「校長:D・E・ホーク〜1975年3月」とあります。私たちは学長と呼ぶのが普通でした。幾つもの制約を痛感しながらではありますが、三つの時に垣間見た、保線夫としての生き方について、それもあくまで私の目に映った限りの姿について、お証ます。
(1)現在、そしてこれから。
一番最近、この秋にホーク先生から頂いた手紙に、「一日を始めるに当たっての祈り」、また「私の信仰の祈り」と、二つの祈りの言葉が同封されていました。
第一の「一日を始めるにあたってのいのり」は、1662年のカモン・プレイヤーに基づくものです。
第二の「私の信仰の祈り」は、キリストの死と復活に堅く立ち、日々、主に従う者の祈りです。先ほど賛美しました、笹尾鉄三郎先生作詞の聖歌722番、そして後ほど共に賛美したいと願っております、同じく笹尾先生作詞の聖歌733番。二つの聖歌の一節、一節に見事に証されている、日々主に従う者の祈り、ホーク先生の祈りは全く同じです。
ホーク学長は、私どもが日本クリチャンカッレジの一年生であったとき、「ノーバイブル、ノーブレックファスト、聖書を読まずに朝飯食うな。」、そう教えてくださいました。あれから、四十年余が経過している今、日々の祈りの実践を身をもって教えてくださっているのです。これこそ、保線夫の生き方。加来国生先生が「朝の祈り、それが、私の牧会のすべてだ」と教えてくださった恵みに、それは深いところで通ずるものです。
今回のお便りでもう一つ胸を打つことは、手紙の宛名の文字です。記憶の衰えと戦いながら二冊の本を書き続けている生活を伝える手紙。その宛名の文字は、明らかに手の震えと懸命に戦いながら書かれた違いない。制約が厳しければ厳しいほど、その只中で、何も出来ないわけではない、今、このとき、この場で与えられている力の限りをつくせと、四十年以上前の一学生に保線夫の生き方を伝授する。口述筆記されたと思われる手紙本文の美しい字体とは全く異なるみみずが這っているような文字、その文字を通し確かに伝わって来る気迫を私は残る生涯忘れることができないでしょう。ガラテヤ人への六章11節のパウロのことばと共に。
(2)一九九七年五月。
その年の五月の末、私はアメリカの母校卒業三十年記念の同窓会に出席しました。マサチュッセッツ州ケンリッジの母校に行く前に、引退してフロリダで住まわれるホークご夫妻、そしてもう一人の恩師、私ども夫婦を息子、娘と読んでくださる、ロージャー・ニコールご夫妻を訪問する計画を立てました。
五月二十八日(水)にホーク先生の所につくと、ホーク先生は、「前の週に風呂場で足を滑らせ、胸のところを打ってしまった。ニコール先生のところまで、遠距離自動車を運転するのは無理だ。」、そうニコール先生に伝えてあると話されたのです。
その結果、生涯二度とはないに違いない四日間を私は過ごすことになりました。朝六時前になると「タケオ」と、ホーク先生が声をかけ、部屋のドアをノックしてくださり、散歩に出掛けるのです。まずミルクティーを一杯飲んで、出発。一度外へ出ると、これが胸をに打って痛み長距離運転をできない人なのか疑いたくなるほど早足で、引退した方々が悠悠自適の生活をおくっている美しく広々としている施設、その周囲を囲む遊歩道を歩くのです。歩きながら、会う人々に「ゴッド・ブレッシュ・ユウ」と怒ってるのかと訝りたくなる勢いで、声をかけるのです。
あの四日間、朝となく昼となく、そして夜も。私の生涯において、一人の人とあれだけ長時間連続的に話を聞いたり、話をしたことは、後にも先にもありません。ミセスホーク先生の話しによれば、こうなので「この美しい施設にいる周りの人はみな、ゆっくり引退生活を楽しんでいる。けれどもミスターホークだけは、頭の中も心の中も燃え続けている、それを受け止める話し相手がいない。あなたよく来てくれた。」と、昔と変わらない明るさで、それでもしみじみと話してくださるのです。何はともあれ、あの四日間のことを忘れることはできまん。先輩保線夫から、過去をどのように回顧し、また将来を展望するのか、年を重ねたご自身の存在そのものを通し教えられる貴重な経験でした。
私はと言えば、主に二つの事を話しました。私なりの過去の回顧と将来への展望として。
①第一は、日本クリスチャンカレッジ、TCCの卒業生。
私の限られた知識、しかも自分が直接係わりを持つごく限られた分野に過ぎないと制約を承知の上でも、クリスチャンカレッジのビジョンを卒業生たちは実現している事実を見ると私なりの確信をホーク学長に伝えたのです。特に神学教育の現場に従事しているいる卒業生たちの幾人かについて。
関西学院神学部のM兄。アウグスティヌスの専門家として高く評価されている彼が、沖縄で牧会に従事している卒業生を問安されたことがあります。卒業生を個人的に訪問し、広く多くの人々に開かれた講演会で話しをするM兄の姿に、外ならない日本クリスチャンカレッジのスピリットを私は見る思いがしました。M兄から溢れてくるスピリット、それは私たちの共通の場である、あのクリスチャンカレッジで与えられたものではないかと。
神戸改革派神学校で、長年に渡り良き働きを続けておられるT兄。彼から私のような異なる教派の者にも伝わってくるのは、改革派教会神学というより、改革派神学、さらには聖書神学を体現している清々しさです。その事実のうちに、私はやはりクリスチャンカレッジで伝授したエトスを見るのです。
国際キリスト教大学のN兄。彼は本務校でよき働きをしているばかりでなく、東京神学大学でも新約学の授業を担当していると伝え聞きます。このTCC卒業生が、二つの教育機関で、若き日に国立の学園で体得したスピリットをもって、良き神学教育を継続されていることを覚え、感謝するのです。一九六九年四月、新米教員として最初に教えたTCCの授業で出会って以来、アメリカの同じ母校で学んだこともあり、彼の歩みを熟知する者として、彼自身を含めて誰がなんと言っても、クリスチャンカレッジの良きスピリットが彼の心の奥深く刻まれていると私は断言して憚らないのです。
小さな沖縄聖書神学校でも、四名のJCC、TCCの卒業生がそれぞれの立場で喜んで仕えています。
こうしたことをホーク先生と話し合いながら、学長が人生の夏の盛りを注ぎ込んだクリスチャンカレッジのビジョンは、私たちの思いを越えて、深くばかりでなく、広く実現していると熱っぽく話す私。ホーク学長は、これらの流れを知らなかったとしながら、心深く何事かを噛みしめておれるように、私には伝わって来るのでした。
②第二は、渡辺公平先生、そして組織神学
あの四日間、私からの話題のもう一つ。それは、渡辺公平先生を通し学んだ組織神学が、信仰生活のバックボーンとして自分の生涯にとりどれほどのものであるか、この点をめぐるものです。これは、単に私の個人的な経験ではない。牧会の前線にある牧師たちにとり、クリスチャンカレッジで学んだ組織神学が、各自の戦いの場でどれほど重要な意味を持つものとなっているか。横浜地区の有志の牧師たちが、九十歳になられる渡辺公平先生をお招きして、月に一回学びのときを続けている一事からも、それは明白だと私はホーク学長の目を直視しながらに話しました。
JCCやTCCが目指したスピリットと神学は、それが聖書に堅く根ざすが故に、クリスチャンカレッジのビジョンと同様に。深くそして広く、この日本の歴史の中に、今、そして将来、実を結び続けて行く。
一九九七年五月二八日〜三十一日の日々。それは。キリスト教学園を一つのモデル・窓として、世界宣教における神学教育の在り方を展望し、今一度心を熱くする機会でもありました。その当時発足準備をしていた、日本センド派遣会。そのの開拓的働きを通しても、日本から神学教師をセンド国際宣教団の大きく開かれた世界の各地のフィルドに派遣して行けたらと、その幻についてもホーク学長と話し合ったのです。日本クリスチャンカレッジ建学と同じスピリットと神学をもって、日本から神学教師を世界宣教の場に送り出せたらと。
(3)身を引く保線夫の姿から。
保線夫ドナルド・E・ホークから学んだ三番目のこと。それは、保線夫がどのように身を引くか、また保線夫が何に胸を痛めるかということです。一九六九年四月から一九七五年三月まで、ホーク学長のもとで、一番若い教師として日々を過ごし得たこと、今にして思えば、やはり深い恵であったと悟るようになりました。最後のころは留守がちであったホーク学長。それに何と言っても、あのような時代的背景の中でのことです。ある日担当チャペルでの宣教の後、「ホーク学長に対する挑戦状ですね」と、或る方から言われたことなども記憶します。こうした雰囲気の中で、保身でなく、保線に生きる者の生き方を、私はホーク学長から学んだと今は理解しています。特に二つの具体的な事柄をめぐって。
①一つはこうです。
私の聞き違いでなければ、ドナルド・E・ホーク学長がTCCの学長を去るに当たって言われたことです。
「今、同盟の中で、同盟聖書学院を再び建てる意見がある。それは、自分が教派教団を越えたクリスチャンカレッジを目指した目的を否定することになる。自分が身を引いてTCCが本来の道を歩み続ける、その道を選ぶ」と。これが、私が聞いたと記憶する限り、ドナルド・E・ホークの保線夫としての言葉です。
②もう一つは、
聖書神学舎・聖書宣教会に関わることです。
「聖書神学舎の三人の設立者の一人である自分は、今や全く発言する機会を与えられていない」と。保線夫の心の痛みです。
過去を回顧する。勿論、この場で、一人の貧しい者の記憶に頼って、全体を回顧することなどできません。しかしこのごく制約された中であっても、クリスチャンカレッジと神学校(セミナリー)の関係、それをどう見るのか、どうするか、この総論的な課題は、四十年来この課題を考え続けてきた私は、避けて通れません。具体的には、聖書神学舎・聖書宣教会と東京キリスト教学園の関係、これを正直に回顧する。「正直」とは、あったことをないことにしたり、ないことをあったことにしない。簡単明瞭なことです。しかし自らのうちなるものと聖霊ご自身の導きにより戦いつつ、それを公的に表して行く公的な戦いの道であり、確かに厳しい道です。しかしこのこととなくして、学園の設立を記念することはできず、避けて通れないと考えます。